「今村英生」を編集中
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1708年10月12日(宝永5年8月29日)日本での布教を目的にイタリア・シチリア島パレルモ出身のローマカトリック在俗司祭[[ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ]]が[[薩摩]]の[[屋久島]]に上陸した。間もなく捕えられ尋問のため長崎に護送された。[[長崎奉行]]による取り調べにはポルトガル語も解する大通詞・今村英生が主に通訳に当たった。しかしより正確な意思疎通をはかるため実際にはラテン語を解するイタリア出身の商館員アドリアーン・ダウ(Adriaen Douw, ? -1713)がシドッチの供述をオランダ語に訳し、英生らがそれを更に日本語に訳した。尋問もその逆で行われる。その結果が「異国人口書」として幕府に報告される<ref>宮崎道生校注、新井白石著『新訂西洋紀聞』(東洋文庫113、平凡社、1968)</ref>。同時に英生はラテン語習得が命じられダウについて学習を始めるとともにシドッチ世話係にもなった。 |
1708年10月12日(宝永5年8月29日)日本での布教を目的にイタリア・シチリア島パレルモ出身のローマカトリック在俗司祭[[ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ]]が[[薩摩]]の[[屋久島]]に上陸した。間もなく捕えられ尋問のため長崎に護送された。[[長崎奉行]]による取り調べにはポルトガル語も解する大通詞・今村英生が主に通訳に当たった。しかしより正確な意思疎通をはかるため実際にはラテン語を解するイタリア出身の商館員アドリアーン・ダウ(Adriaen Douw, ? -1713)がシドッチの供述をオランダ語に訳し、英生らがそれを更に日本語に訳した。尋問もその逆で行われる。その結果が「異国人口書」として幕府に報告される<ref>宮崎道生校注、新井白石著『新訂西洋紀聞』(東洋文庫113、平凡社、1968)</ref>。同時に英生はラテン語習得が命じられダウについて学習を始めるとともにシドッチ世話係にもなった。 |
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将軍の側近であった[[新井白石]]はシドッチの供述書に満足せず直接尋問すべく江戸への護送を命じた。シドッチは英生らに付き添われ1709年10月25日長崎を出発、12月1日に江戸に到着後直ちに[[小日向]]の |
将軍の側近であった[[新井白石]]はシドッチの供述書に満足せず直接尋問すべく江戸への護送を命じた。シドッチは英生らに付き添われ1709年10月25日長崎を出発、12月1日に江戸に到着後直ちに[[小日向]]の切支丹屋敷に収監される。以後数回にわたり白石は英生のラテン語を介しシドッチを尋問し、そのつど英生らを私邸によび復習・確認を行った。役目を終えた英生には功により帰国の際、白銀5枚が下賜された。白石はシドッチの博学に驚き西洋事情にも興味を示し、シドッチが日本語を習い覚えると何度も切支丹屋敷を訪れ知識を吸収した。その一方で公平を期すためオランダ人とも直接会い学習した。その一例は1711年4月3日折から滞在中の商館長一行を白石は[[浅草]]・善龍寺に訪ね、ジョアン・ブラウ︵Joan Blaeu︶の世界図1648年度版︵[[東京国立博物館]]に現存︶などを持ち込み、英生を介し西洋事情を聴取し、例によって私邸での復習・勉強会もおこなっている<ref>今村英明﹁ブラウ世界図の付箋について﹂﹃日蘭学会会誌﹄37巻1号︵日蘭学会、2007︶</ref>。白石は退職後も英生との書簡の交換で西洋の知識を吸収している<ref>宮崎道生﹁﹃外国之事調書﹄について﹂﹃史学雑誌﹄66巻︵山川出版・史学会編、1957︶</ref>。それらが名著﹃[[西洋紀聞]]﹄や﹃[[采覧異言]]﹄に結実された。英生は白石の洋学を陰で支えたといえる。
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[[ファイル:Dejima-Ezu-Persian-Horses.jpg|thumb|240px|出嶋絵図、享保・宝暦頃上写。厩、馬乗場、馬仕入柱、馬副居所など輸入洋馬関連の設備が見られる。]]
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[[ファイル:Dejima-Ezu-Persian-Horses.jpg|thumb|240px|出嶋絵図、享保・宝暦頃上写。厩、馬乗場、馬仕入柱、馬副居所など輸入洋馬関連の設備が見られる。]]
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=== 徳川吉宗への献身 === |
=== 徳川吉宗への献身 === |
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[[徳川吉宗]]は1716年、将軍に任じられる。英生は吉宗三男の源三の名を憚り︵と本人は商館長に説明している︶<ref>Japans Dagregisters︵日本商館長日誌︶。原本はオランダ国ハーグの国立中央文書館︵Nationaal Archief︶所蔵。日誌部分訳‥今村英明訳﹃オランダ商館日誌と今村英生・今村明生﹄︵ブックコム、2007︶</ref>、1719年に俗称を﹁源右衛門﹂から﹁市兵衛﹂と改めた。実学・洋学に強い関心を示す吉宗は西洋の文物を輸入させるが、その目的から1721年、御用方通詞が新設さる。1724年江戸番通詞の英生は商館長一行の江戸参府の折、3月23日城中で幕府医官と上外科ケーテラール︵Willem Ketelaer︶との質疑応答を通訳するが、そこに吉宗もお忍びで参加する。25日には奥坊主・水谷甫閑︵? - 1726︶らが吉宗自ら捕えた白鳥をみやげに商館長一行の宿舎[[長崎屋源右衛門|長崎屋]]を訪れ、それを食材とした西洋料理を賄わせ、同時に甫閑を介し吉宗からの質疑応答が英生の通訳で行われた。英生の解説も含むその時の報告書が小冊子﹃和蘭問答﹄として残されており、そこには﹁麦の酒﹂﹁ヒイル﹂なる語が表記されており、日本で初めて表記された[[ビール]]を指すと考えられている<ref>今村英明﹁徳川吉宗と﹃和蘭問答﹄﹂片桐一男編﹃日蘭交流史 その人・物・情報﹄︵思文閣出版、2002︶</ref>。
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[[徳川吉宗]]は1716年、将軍に任じられる。英生は吉宗三男の源三の名を憚り︵と本人は商館長に説明している︶<ref>Japans Dagregisters︵日本商館長日誌︶。原本はオランダ国ハーグの国立中央文書館︵Nationaal Archief︶所蔵。日誌部分訳‥今村英明訳﹃オランダ商館日誌と今村英生・今村明生﹄︵ブックコム、2007︶</ref>、1719年に俗称を﹁源右衛門﹂から﹁市兵衛﹂と改めた。実学・洋学に強い関心を示す吉宗は西洋の文物を輸入させるが、その目的から1721年、御用方通詞が新設さる。1724年江戸番通詞の英生は商館長一行の江戸参府の折、3月23日城中で幕府医官と上外科ケーテラール︵Willem Ketelaer︶との質疑応答を通訳するが、そこに吉宗もお忍びで参加する。25日には奥坊主・水谷甫閑︵? - 1726︶らが吉宗自ら捕えた白鳥をみやげに商館長一行の宿舎[[長崎屋源右衛門|長崎屋]]を訪れ、それを食材とした西洋料理を賄わせ、同時に甫閑を介し吉宗からの質疑応答が英生の通訳で行われた。英生の解説も含むその時の報告書が小冊子﹃和蘭問答﹄として残されており、そこには﹁麦の酒﹂﹁ヒイル﹂なる語が表記されており、日本で初めて表記された[[ビール]]を指すと考えられている<ref>今村英明﹁徳川吉宗と﹃和蘭問答﹄﹂片桐一男編﹃日蘭交流史 その人・物・情報﹄︵思文閣出版、2002︶</ref>。
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