佐藤賢
佐藤 賢(さとう まさる、1981年12月6日 - )は、東京ヤクルトスワローズに在籍するプロ野球選手(投手)である。
東京ヤクルトスワローズ #13 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 山形県最上郡金山町 |
生年月日 | 1981年12月6日(42歳) |
身長 体重 |
177 cm 88 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 2003年 5巡目 |
初出場 | 2004年5月2日 |
年俸 | 1100万円(推定) |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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人物・来歴
アマチュア時代
羽黒高等学校時代は県ベスト8止まり。2000年4月に明治大学に進学し、上京した。入学後はなかなか目が出なかったが、2003年4年時の春にサイドスローに転向し台頭。春季大会で全勝優勝目前の早稲田大学戦に先発し11奪三振の好投を見せ、自ら本塁打を放つなど打撃でも活躍して注目を集めた。特にその年のドラフトの目玉であった鳥谷敬︵現・阪神︶を完璧に封じ込んだことが高く評価された。この鳥谷との対戦については、プロ入り後に佐藤本人も野球教室などで触れたことがある。
2003年のドラフト会議で、ヤクルトスワローズから6巡目で指名を受け入団した。大学の同期から他に、牛田成樹︵横浜4巡目︶、呉本成徳︵横浜5巡目︶、岡本篤志︵西武6巡目︶が指名を受けており、明大から4人プロ入りしたことが話題になっている。
プロ入り後
手薄な左の中継ぎとして期待を受けたが、キャンプ中、後述のエピソードのようにソバアレルギーで倒れてしまった。幸い一命は取りとめ、練習にも復帰。3月16日のオープン戦では2回無失点の好投を見せて復活を印象付けた。開幕は二軍で迎えたが、4月30日に一軍初登録。5月2日の対阪神戦、8回裏6点ビハインドの場面で初登板し、1回を1奪三振の無失点で切り抜けた。最終的には、プロ1年目ながら一軍で21試合に登板。防御率は5.24も、キレの良い変化球で台頭した。フレッシュオールスターゲームにも出場し、1イニング2奪三振の無失点の好投を見せている。
2005年
オフにアリゾナで減量に取り組んだ事もあって、引き締まった体でキャンプイン。初の開幕一軍でシーズンを迎えると、負け試合や点差の開いたゲームの中継ぎとして、計32試合に登板し、防御率3.12と前年以上の成績を残した。しかし運動している筈のシーズン中に体重が増えてしまう珍現象が生じ、二度の二軍落ちも経験。一年通しての一軍定着はならなかった。
2006年
キャンプ・オープン戦と好調を維持し、開幕こそ一軍で迎えたが、4月27日に二軍降格。その後ファームでの成績がぴりっとせず、再登録は高井雄平の不振を受けた、9月16日までずれこんでしまった。復帰後はまずまずの好投を見せ、最終的に13試合に登板。一軍の防御率は自己最高の2.63だった。
2007年
3年続けて開幕一軍でシーズンを迎え、開幕戦にも登板。しかし登板した4試合全てで被安打を記録するなど打ち込まれてしまい、4月12日に二軍降格。前年同様9月4日に一軍復帰を果たしたが、復帰後も芳しい結果を残すことが出来ず、9月26日に再度抹消され、そのまま二軍登録で一年を終えることになった。最終的にはプロ入り後自己最少の9試合登板に留まり、防御率も7.50と結果を出す事が出来なかった。秋季キャンプでは巻き返しを期し、アンダースロー転向の練習も行っていたが、最終的にはサイドスローに戻している。
2008年
4年連続の開幕一軍入りを果たした。オープン戦で安定した投球を見せ、また中継ぎ左腕が手薄になっているというチーム事情もあり勝ち試合・接戦での起用が増えており、3月30日神宮での対読売戦にて、5年目にして念願のプロ入り初勝利をあげた。
プロ入り後の通算成績
年度 | 所 属 球 団 |
登 板 |
勝 利 |
敗 北 |
セ 丨 ブ |
完 投 |
完 封 勝 |
無 四 球 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
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2004年 | ヤクルト | 21 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 103 | 22.1 | 25 | 5 | 11 | 2 | 23 | 2 | 0 | 14 | 13 | 5.24 |
2005年 | 32 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 108 | 25.2 | 25 | 1 | 9 | 1 | 27 | 0 | 0 | 9 | 9 | 3.16 | |
2006年 | 東京ヤクルト | 13 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 58 | 13.2 | 10 | 1 | 7 | 1 | 14 | 0 | 0 | 7 | 4 | 2.63 |
2007年 | 9 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 31 | 6.0 | 9 | 1 | 3 | 1 | 6 | 0 | 0 | 5 | 5 | 7.50 | |
通算成績 | 75 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 300 | 67.2 | 69 | 8 | 30 | 5 | 70 | 2 | 0 | 35 | 31 | 4.12 |
- 2007年シーズン終了時まで。
エピソード
プレイスタイル
最速140km/h前後のストレートと、スライダー・シンカーをサイドスローから投げ込む技巧派投手。特に切れ味の鋭いスライダーを武器に高い奪三振率を誇り、2004年から2007年までの一軍4年間では、奪三振数がイニング数を下回ったことが無い。
課題は勝負所での制球力。また2007年まではサイドスローながら球の出所は見やすいこと、必ずしも左打者を抑えているとは言い難いことが課題としてあげられていた︵2008年シーズンはやや腕が遅れて出ており、好結果につながっている︶。
持久走を苦にしており、キャンプの長距離走では最下位の常連である。しかし瞬発力は持っており、元来フィールディングは悪くなく、守備時の反応も極めて良い選手である。また大学時代には対早稲田戦で本塁打も記録するなど、高い野球センスを持っている。
家族
実家は米︵ササニシキ︶の契約栽培を手がける農家である。
球団の公式発表によると、2006年7月7日に一回り年上の一般女性と入籍している。また妻との間には女児がひとりある。夫人はいきつけのゴルフ練習場の利用者であり、二年の交際を経て正式結婚にいたった。﹁妻は退寮後食生活・体調の管理が不行き届きであった自分を得意の料理・食餌療法にのっとった献立づくりで支えてくれた人で、この人なら︵佐藤の︶食生活をお任せできると思い求婚、結婚にいたった﹂と語っている。2007年8月に出生した長女は出生時の体重が3788グラムと大柄であった。
愛称
眼鏡をかけ、太作りでユーモラスな風貌から、プロ入り直後は﹁球界の高見盛﹂の愛称で報道されていた。大学時代は出身高校と体格から、﹁羽黒山﹂と呼ばれることもあった。他に球団公式サイトのプロフィールによると、チームメイトからはなぎら健壱に似ているとの理由から﹁なぎらさん﹂などとも呼ばれている。
食と体格
食と体格にまつわる逸話の多い人物である。小学校の頃には、野球選手ではなく力士になるのが夢であった。学校の相撲大会ではとても良い成績だったという。
ドラフト指名直後の身体測定で、体重103kg、体脂肪率27%︵日本球界の平均は13~15%︶と診断された。前後して同い年の吉川輝昭︵横浜、身長185cm︶も95kg、体脂肪率30%と診断され、球界内外に話題・波紋を呼んだ。プロ入り後はトレーニングによって痩せているが、佐藤自身が選手名鑑などで明かしているように、中華料理を中心とした﹁食べ歩き﹂が趣味であることから、結婚前はシーズン中に太ってしまうこともあった。
入団一年目でのキャンプ中、入浴中にアナフィラキシー・ショックなどを起こし緊急入院し、帰京する事になってしまった。症状は深刻で、急激・極端な血圧低下で生命の危機が憂慮されたことも報道された。原因はソバアレルギーで、以前一度発作歴があったにかかわらずこの日キャンプの食事でソバに箸をつけたこと。後日球団から選手契約条件に﹁ソバ・あるいはソバを含む食品は一切食べない﹂ことを付記された。
関連項目
- 鳥谷敬 - 学生時代佐藤が注目を集めるきっかけとなった選手。プロ入り後も何度か対戦している。
- 山形県出身の人物一覧
- 東京ヤクルトスワローズの選手一覧