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'''光元 東伯'''︵みつもと とうはく、[[安政]]3年6月17日︵[[1856年]]7月18日︶- [[明治43年]]8月16日︵[[1910年]]8月16日︶︶は、江戸時代末期から明治時代の人物。岡山県久米南条郡[[龍山村 (岡山県)|龍山村]]︵現在の[[岡山県]][[久米南町|久米郡久米南町]]︶の村長。溜め池の築造や道路の改良など地域の発展に尽くした。[[諱]]︵いみな︶は義賢︵よしかた︶ == 人物・生涯 ==
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== 溜め池の築造等 ==
* 光元東伯氏は数年来ふたつの村益となるべきものを計画中であり、ひとつは岡山から津山に通じる一等県道である神目村から別所、下籾、中籾、上籾4ヶ村の坂道︵現[[岡山県道375号上籾神目停車場線]]︶を経由して、久米北条郡堺村字今宮に通じる一等里道を改修し、荷車運輸の便を図ろうとすること、もうひとつは、大きな溜め池を新築し、既存の田の干ばつの憂いをなくすことだけでなく、数町歩︵数万平方メートル︶の新田を開墾することであった。さて、折しもこのうちどちらを優先すべきか悩んでいるときに、昨年発布された[[町村制|町村制度]]について4ヶ村を合併しさらに龍山村と名付けようとする有志者が去る1月3日に中籾村赤木伝蔵氏方で、会員132人にて親睦会を開いた際、その席上において、東伯氏は﹁道路改修と溜め池新設のどちらを優先しようか﹂と談話したところ会員は﹁どちらも急務だが数多の収穫を得ることが必要だ﹂ということに話がまとまったので、溜め池の新築工事を立ち上げることとなった。ついては、東伯氏の所有地にして下籾村字舟木谷に数町歩の溜め池を築造できる場所もあるから、これから新たに起工するための願書をその筋へ提出することに確定した。︵明治22年︵1889年︶1月26日︶ 久米南町別所に先人たちの遺業を称えた整地碑があり、その中に東伯の名も刻まれている。碑文中、耕地整理組合の設立が明治43年とあるのは、東伯の最晩年にあたり、また {| class="wikitable"
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![[ファイル:久米南町別所整地碑.jpg|サムネイル|代替文=|中央|久米南町別所にある整地碑]]
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* 道路改良の挙 久米南条郡龍山村村長光元東伯氏は地方有志の寄付金を募集し、同郡神目村より志呂神社へ通じる道路敷地を買い入れて、かねて新設工事中のところ去る7月31日をもって完成し、車馬通行において大変便利になった。なお、引き続き龍山村より久米北条郡へ至る道路5~6里︵約19km~23km︶余りを二間半︵約4.5m︶に改修し、おおいに通行の便を図ろうと計画中であるとのこと。︵明治24年︵1891年︶6月16日︶ 46行目:
== 岸田吟香との親交 ==
* 実業家として知られる[[岸田吟香]]の伯母︵祖父岸田助左衛門の長女︶壽︵とし、寿︶が東伯の祖父弁次郎義榮︵べんじろうよしひで、辨次郎、弁治良、屋号は乢︵たわ︶︶に嫁いだ縁で、特に親しかった。なお、弁治郎は弘化4年3月︵1847年4月︶下籾村庄屋として記録が * 吟香が19歳で江戸に出ようとしたとき、長男であることを理由に両親から強く反対されていたが、東伯の父吉左衛門義謙(よしかね)が旅出させた。
* 安政2年︵1855年︶初冬22歳のとき、吟香は持病の脚気が悪化し失意のうちに帰郷したが療養は光元家に奇寓して行った。一年後病が癒えて再び江戸を志すものの、両親の許しが出ず、伯父弁次郎の執り成しでなんとか大坂までの許しが出た。 52行目:
* 東伯は東京銀座の吟香の自宅で[[伊藤博文]]と3人で会食したことを長女茂野によく話していた。
*明治30年(1897年)吟香が津山に戻ってきた際、東伯、茂野とともに津山の「むさしの旅館」に滞在した。
* 明治37年(1904年)吟香は光元弥兵衛當孝(
== 年譜 ==
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== 家系 ==
光元氏は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の絵師[[土佐光元]]︵とさ みつもと︶の子五郎左衛門が美作国に下向し、子をなして同地に留まることにしたものの、世をはばかり土佐を謂わず父の諱をもって氏としたことに始まると伝えられる。土佐光元は[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]にかけて[[画所|絵所預]]を多く輩出した[[土佐派]]︵藤原行光以降家系と画系が一致︶の絵師であり、菊千代︵きくちよ︶、藤満丸︵とうみつまる︶、女子︵[[狩野光信]]室︶の3人の子がいたことがわかっているが、老齢の父[[土佐光茂]]︵とさ みつもち︶が弟子の[[土佐光吉|玄二︵土佐光吉︵とさ みつよし︶︶]]に孫3人の養育を託してから後の遺児に関する資料は極めて少ない。永禄12年︵1569年︶8月に土佐光元が[[豊臣秀吉|木下秀吉]]の但馬攻めに加わり陣没した時点で元服をしていないことから、菊千代はこのとき10歳に満たないほどの年齢であり︵土佐光元は11歳で元服している︶、藤満丸はさらに年少となる。その後、土佐家文書︵土佐文書︶に天正3年︵1575年︶から天正10年︵1582年︶にかけての年貢の配当についての文書において、このとき光吉が健在であったにもかかわらず、土佐宗忠という人物に宛てられていることから、土佐宗忠はすなわち嫡子の菊千代で、藤満丸が長じて五郎左衛門を名乗ったと考えられる。[[岡山県立図書館]]記録資料館所蔵﹃久米南条郡別所村光元家資料﹄によると、明暦元年8月︵1655年︶から庄屋又兵衛、貞享4年︵1687年︶11月22日から庄屋弥兵衛の文書が残されており、以後明治維新まで当主は代々弥兵衛を襲名した。 # 幸助 (宝永7年(1710年)-天明4年12月4日(1785年1月14日)行年75歳)
# 吉次郎 ( 行年72歳)
# 重治郎義真(宝暦13年(1763年)-文化3年9月18日(1806年10月29日)行年43歳)
# 弁次郎義榮(寛政3年(1791年
#
# 東伯義賢([[安政]]3年6月17日([[1856年]]7月18日)- [[明治43年]]8月16日([[1910年]]8月16日)
* 父:吉左衛門義謙
* 母:ちえ(天保5年4月23日(1834年5月31日)-明治39年9月12日(1906年9月12日))美作国大庭郡湯本村(現[[岡山県]][[真庭市]][[湯原温泉]])郡長 [[牧国信|美甘]]左馬次 長女
* 妻:ため(安政6年2月14日(1859年3月18日)-明治39年12月4日(1906年12月4日))備中国阿賀郡宮地村(現[[岡山県]][[真庭市]]宮地) 美甘吾一郎 二女
# 長女:茂野(難波)
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