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== 家系 ==
光元氏は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の絵師[[土佐光元]]︵とさ みつもと︶の子五郎左衛門が美作国に下向し、子をなして同地に留まることにしたものの、世をはばかり土佐を謂わず父の諱をもって氏としたことに始まると伝えられる。土佐光元は[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]にかけて[[画所|絵所預]]を多く輩出した[[土佐派]]︵藤原行光以降家系と画系が一致︶の絵師であり、菊千代︵きくちよ︶、藤満丸︵とうみつまる︶、女子︵[[狩野光信]]室︶の3人の子がいたことがわかっているが、老齢の父[[土佐光茂]]︵とさ みつもち︶が弟子の[[土佐光吉|玄二︵土佐光吉︵とさ みつよし︶︶]]に孫3人の養育を託してから後の遺児に関する資料は極めて少ない。永禄12年︵1569年︶8月に土佐光元が[[豊臣秀吉|木下秀吉]]の但馬攻めに加わり陣没した時点で元服をしていないことから、菊千代はこのとき10歳に満たないほどの年齢であり︵土佐光元は11歳で元服している︶、藤満丸はさらに年少となる。その後、土佐家文書︵土佐文書︶に天正3年︵1575年︶から天正10年︵1582年︶にかけての年貢の配当についての文書において、このとき光吉が健在であったにもかかわらず、土佐宗忠という人物に宛てられていることから、土佐宗忠はすなわち嫡子の菊千代で、藤満丸が長じて五郎左衛門を名乗ったと考えられる。[[岡山県立図書館]]記録資料館所蔵﹃久米南条郡別所村光元家資料﹄によると、明暦元年8月︵1655年︶から庄屋又兵衛、貞享4年︵1687年︶11月22日から庄屋弥兵衛の文書が残されており、以後明治維新まで当主は代々弥兵衛を襲名した。 === 乢光元家系 ===
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