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裘甫の乱・龐勛の乱に続いて起きたのが、これら反乱の最大にして最後の大爆発である[[黄巣の乱]]である{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=476}}。870年くらいから唐には[[旱魃]]・[[蝗害]]などの天災が頻発していたが、唐の地方・中央政府はこれに対して無策であった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=477}}。この時の蝗害は長安周辺にまで及んだが、京兆尹が時の皇帝[[僖宗]]に出した被害報告が「イナゴは穀物を食べず、みなイバラを抱いて死せり」というでたらめなものであった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=477}}。 |
裘甫の乱・龐勛の乱に続いて起きたのが、これら反乱の最大にして最後の大爆発である[[黄巣の乱]]である{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=476}}。870年くらいから唐には[[旱魃]]・[[蝗害]]などの天災が頻発していたが、唐の地方・中央政府はこれに対して無策であった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=477}}。この時の蝗害は長安周辺にまで及んだが、京兆尹が時の皇帝[[僖宗]]に出した被害報告が「イナゴは穀物を食べず、みなイバラを抱いて死せり」というでたらめなものであった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=477}}。 |
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このような状態に対して874年︵あるいは875年︶に[[濮州]]の塩賊の[[王仙芝]]が[[滑州]]で挙兵、これに同じく[[曹州]]の塩賊の[[黄巣]]が呼応したことで黄巣の乱が始まる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=477}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=436}}。この反乱集団には非常に雑多な人種が参加した。没落農民・失業兵士・塩賊・茶賊{{Refnest|group="注釈"|name="茶賊"|塩賊の茶バージョン。茶には塩ほどではないが、高額の税がかけられていたので、それを回避する私茶が横行、これを取り扱う私茶業者を茶賊と呼んだ{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=461}}。}}・大道芸人などなど{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=478}}。これらの軍団を率いて、特定の根拠地は持たず、山東・河南・安徽を略奪しては移動という行動を繰り返した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=478}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=437}}。唐政府はこれに対して王仙芝に禁軍の下級将校のポストを用意して懐柔しようとしたが、黄巣には何ら音沙汰がなかったため黄巣は強く反対。これを機に黄巣と王仙芝は別行動を取ることになる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=480}}。その後の878年に王仙芝は唐軍の前に敗死{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=480}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=438}}。黄巣軍は江南・[[広州 (広東省)|広州]]に入って唐に対して節度使の職を要求するが、唐はこれを却下{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=480}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=438}}。怒った黄巣は広州に対して徹底的に略奪と破壊を行った{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=480}}。
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このような状態に対して874年︵あるいは875年︶に[[濮州]]の塩賊の[[王仙芝]]が[[滑州]]で挙兵、これに同じく[[曹州]]の塩賊の[[黄巣]]が呼応したことで''﹁''[[黄巣の乱]]''﹂''が始まった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=477}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=436}}。︵詳細は''﹁''[[黄巣の乱]]''﹂を参照︶''
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しかし南方の気候になれない黄巣軍には病人が続出し、黄巣は北へ戻ることにした{{Sfn|布目|栗原|1997|p=439}}。そして880年に洛陽南の[[汝州]]に入り、ここで自ら天補平均大将軍を名乗る{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=481}}。同年の秋に洛陽を陥落させる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=481}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=441}}。さらに長安に向かって進軍し、同年冬に長安を占領した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=482}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=441-442}}。黄巣は長安で皇帝に即位し、国号を大斉とし、金統と改元した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=482}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=442}}。しかし長安に入場した黄巣軍には深刻な食糧問題が生じた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=483}}。元々長安の食料事情は非常に悪く、江南からの輸送があって初めて成り立っていた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=346}}。長安を根拠として手に入れた黄巣軍だったが、他の藩鎮勢力により包囲され、食料の供給が困難となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=483}}。長安周辺では過酷な収奪が行われ、穀物価格は普段の1000倍となり、[[食人]]が横行した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=483}}。
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882年、黄巣軍の[[同州]]防御使であった朱温︵後の[[朱全忠]]︶は黄巣軍に見切りを付け官軍に投降した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=483}}。さらに突厥沙陀族出身の[[李克用]]が大軍を率いて黄巣討伐に参加{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=483}}。883年に黄巣軍は李克用軍を中核とする唐軍に大敗。河南へと逃げるが李克用の追撃を受けて884年に自殺。黄巣の乱は終結した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=484}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=447}}。
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しかし南方の気候になれない黄巣軍には病人が続出し、黄巣は北へ戻ることにした{{Sfn|布目|栗原|1997|p=439}}。
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880年、黄巣軍は洛陽南の[[汝州]]に入り、ここで黄巣は自ら天補平均大将軍を名乗る{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=481}}。同年の秋に洛陽を陥落させる{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=481}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=441}}。さらに黄巣軍は長安に向かって進軍し、同年冬に長安を占領した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=482}}{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=441-442}}。黄巣は長安で皇帝に即位し、国号を﹁大斉﹂とし、金統と改元した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=482}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=442}}。しかし長安に入場した黄巣軍には深刻な食糧問題が生じた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=483}}。元々長安の食料事情は非常に悪く、江南からの輸送があって初めて成り立っていた{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=346}}。長安を根拠として手に入れた黄巣軍だったが、他の藩鎮勢力により包囲され、食料の供給が困難となった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=483}}。長安周辺では過酷な収奪が行われ、穀物価格は普段の1000倍となり、[[食人]]が横行した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=483}}。
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882年、黄巣軍の[[同州]]防御使であった朱温︵後の[[朱全忠]]︶は黄巣軍に見切りを付け、黄巣を裏切り、唐の官軍に投降した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=483}}。さらに突厥沙陀族出身の[[李克用]]が大軍を率いて黄巣討伐に参加した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=483}}。
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883年、黄巣軍は李克用軍を中核とする唐軍に大敗した。その後、黄巣は河南へと逃げるが李克用の追撃を受けて884年に自殺した。こうして、''﹁''[[黄巣の乱]]''﹂''は終結した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=484}}{{Sfn|布目|栗原|1997|p=447}}。
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黄巣の乱は終結したが、最早この時点で唐政府には全国を統治する能力は失われており、朱全忠・李克用ら藩鎮軍閥勢力は唐より自立。唐は一地方政権へと成りさがってしまった{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=452-453}}。この割拠状態で唐の宮廷では宦官・官僚らが権力争いを続けていた。しかしそれまでの権力争いと違って、それぞれの後ろには各軍閥勢力がいた。軍閥は皇帝を手中にすることでその権威を借りて号令する目論見があった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=485}}。この勢力争いに勝利したのが朱全忠であった。朱全忠はライバル李克用を抑え込むことに成功し、鳳翔節度使[[李茂貞]]を滅ぼして皇帝[[昭宗 (唐)|昭宗]]を自らの根拠地である[[汴州]]に近い洛陽へと連れ出した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=485}}。
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黄巣の乱は終結したが、最早この時点で唐政府には全国を統治する能力は失われており、朱全忠・李克用ら藩鎮軍閥勢力は唐より自立。唐は一地方政権へと成りさがってしまった{{Sfn|布目|栗原|1997|pp=452-453}}。この割拠状態で唐の宮廷では宦官・官僚らが権力争いを続けていた。しかしそれまでの権力争いと違って、それぞれの後ろには各軍閥勢力がいた。軍閥は皇帝を手中にすることでその権威を借りて号令する目論見があった{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=485}}。この勢力争いに勝利したのが朱全忠であった。朱全忠はライバル李克用を抑え込むことに成功し、鳳翔節度使[[李茂貞]]を滅ぼして皇帝[[昭宗 (唐)|昭宗]]を自らの根拠地である[[汴州]]に近い洛陽へと連れ出した{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=485}}。
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そして907年。朱全忠は唐の最後の皇帝[[哀帝 (唐)|哀帝]]から禅譲を受けて皇帝に即位。国号を |
そして907年。朱全忠は唐の最後の皇帝[[哀帝 (唐)|哀帝]]から禅譲を受けて皇帝に即位。国号を梁︵後世からは[[後梁]]と呼ばれる︶とした{{Sfn|窪添|關尾|中村|愛宕|金子|1996|p=486}}。ここに300年近くに渡った唐王朝の歴史は終わりを告げた{{Sfn|氣賀澤|2005|p=137}}。しかしこの時点で後梁の支配地域は河南や山東などごく一部の領域に過ぎず{{Sfn|愛宕|梅原|溝口|森田|杉山|1997|p=12}}、これから宋が再び統一するまでの約70年間、[[五代十国時代]]と呼ばれる分裂時代となる{{Sfn|愛宕|梅原|溝口|森田|杉山|1997|pp=3-4}}。
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== 政治 == |
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* [[唐朝の官職]] |
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* [[唐朝におけるイスラーム]] |
* [[唐朝におけるイスラーム]] |
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* [[黄巣の乱]] |
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== 外部リンク == |
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