宇田栗園
略歴
文政9年︵1826年︶、山城国乙訓郡神足村︵現在の京都府長岡京市︶にて実相院門跡家臣宇田利起の第六子︵四男[1]︶として生まれる。宇田家は代々儒医の家柄であり、巌垣松苗に儒学を、宗真哉に医学を学び、19歳で医業に就いた[2]。また、本居大平の門人でもあった父利起の勧めで、和歌にも親しんだ。
弘化3年︵1846年︶、京都へ居を移した梁川星巌の門下に加わると、師の影響で勤王の気風に染まり、﹃伝習録﹄を読み、陽明学を信奉するようになる。同門には、藤井竹外がいて、友として親しんだ[3]。星巌の死後、文久3年︵1863年︶に刊行された﹁星巌先生遺稿﹂全15巻では、江馬天江とともに凡例を担当しており、星巌門下での栗園の高い地位が窺われる[4]。
安政5年︵1858年︶に星巌が安政の大獄の捕縛対象者となって没して後は、勤王家として活動すると共に、乙訓郡で漢詩の指導に当たった。文久2年︵1861年︶、﹃文久二十六家絶句﹄に漢詩二十六首が収録された。
文久4年~5年︵1864年~1865年︶ごろ、岩倉村にて蟄居中の岩倉具視に拝謁し、その後親交を深め、明治元年︵1868年︶の戊辰戦争では、岩倉具定・具経兄弟が率いる東山道鎮撫軍に、東山参謀長として従軍した。同年帰郷して後は、岩倉家の執事扱いとなる。
明治2年︵1869年︶ごろ、京都に居を移し、御所の保存に尽力する。同年、留守官判官に就任[5][6]。同職が明治4年︵1871年︶8月23日に廃止された後は、京都府大参事、宮内省御用掛、桂内親王家令など務め、従四位勲四等に叙せられた。
明治10年︵1877年︶、京都で和歌の家を廃れさせぬため歌会を持つようにとの明治天皇の意を承け、岩倉具視は栗園をその幹事に推薦した[7][8]。このころ栗園は漢詩を読むのをやめ、和歌に転じていた。なお、この歌会は明治22年︵1889年︶に﹁向陽会﹂と命名された。
明治19年︵1886年︶、主殿寮京都出張所長となる。明治28年︵1895年︶、日本弘道会京都支会長[9]。明治34年︵1901年︶3月、従三位勲三等を叙勲。同年4月17日病歿、享年75。
逸話
著作
●﹃文久二十六家絶句﹄文久2年︵1861年︶刊︵うち26首が栗園作︶。
●﹃栗廼花﹄明治37年︵1904年︶、宇田豊四郎 刊。
●﹃静観亭遺稿﹄明治44年︵1911年︶中野太郎 刊。
家族
三輪田真佐子を娘とするものがあるが、誤りである。三輪田真佐子の兄である三輪田米山の『米山日記』(写本)明治2年4月9日には、綱一郎と梅野(真佐子の幼名)の婚姻の事情が記されているが、媒酌人だった栗園を父親だと誤ったと考えられる。
参考文献
●黒田譲﹁宇田栗園翁﹂︵﹃名家歴訪録﹄中巻所収︶1901年、黒田譲。
●高崎正風述﹃高崎正風演説筆記﹄1901年、三上庄次郎。
●日本弘道会編﹃日本弘道会四十年志﹄1915年、日本弘道会。
●千田稔﹃維新政権の秩禄処分 天皇制と廃藩置県﹄1979年、開明書院。
●小林丈弘﹃明治維新と京都 公家社会の解体﹄臨川選書14、1998年、臨川書店。
●新稲法子﹁宇田栗園と漢詩﹂和漢比較文学 2016;57:99-116。
●日浅忠行﹁実相院門跡坊官宇田家とその一族﹂乙訓文化遺産 2016;21:48-51。