市瀬恭次郎
市瀬 恭次郎(いちのせ きょうじろう、1867年7月24日(慶応3年6月23日)[1][2][3] - 1928年(昭和3年)8月15日[1][2][4])は、明治から大正時代の土木工学者、内務技監、大日本帝国陸軍軍人。
経歴・人物
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市瀬亨介の次男として丹波国多紀郡に生まれ、1893年︵明治26年︶3月、分家する[2][3]。1890年︵明治23年︶7月、帝国大学工科大学土木科を卒業し、工学士の称号を得る[3]。1911年︵明治44年︶工学博士[2]。同年、内務省土木監督署に出仕し、技師試補を拝命[1][2][3]。さらに12月には陸軍志願兵となり日清戦争に従軍[1][2][3]。1892年︵明治25年︶8月、陸軍歩兵少尉に進む[3]。1893年︵明治26年︶11月、土木監督署技師に任じ、広島土木監督署在任中に児島港築港事業に従事した[5]。1895年︵明治28年︶陸軍歩兵中尉となり、終戦を迎える[3][4]。
1897年︵明治30年︶内務技師となり、翌年から1年間、欧米に出張する[1][2][4][6]。1905年︵明治38年︶土木局調査課に転じ、関門海峡における潮流に関する研究で功績を挙げ、ついで1913年︵大正2年︶内務省仙台土木出張所所長となり北上川改修工事を監督[5]。さらに土木局調査課長兼直轄工事課長を経て、1919年︵大正8年︶神戸土木出張所長となり神戸港の拡張工事を指揮し[5]、土木局調査課長心得、1924年︵大正13年︶内務技監を歴任[1][2][3][4][6]。任官中に死去した[4]。児島湾理築工事、神戸港拡張工事、北上川改修工事などに関与した[4]。ほか、港湾調査会委員、道路会議議員等の委員を歴任した[4]。
1928年︵昭和3年︶発足した内務系技術官の組織である土木倶楽部では会長を務め、技術官の地位向上や待遇改善に尽力した[5]。
親族
編集脚注
編集参考文献
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●人事興信所﹃人事興信録 第4版﹄人事興信所、1915年。
●人事興信所﹃人事興信録 第8版﹄人事興信所、1928年。
●高橋裕、藤井肇男 共著﹃近代日本土木人物事典: 国土を築いた人々﹄鹿島出版会、2013年。ISBN 4306094294。