「座間市」を編集中
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|style="border-bottom:1px solid"|1974年11月1日 |
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|style="border-bottom:1px solid"|1999年9月13日 |
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|style="border-bottom:1px solid"|<u>広野台2</u>([[1974年]]10月31日以前は大字座間字元広野、大字座間入谷字向長窪 |
|style="border-bottom:1px solid"|<u>広野台2</u>([[1974年]]10月31日以前は大字座間字元広野、大字座間入谷字向長窪・字東長久保・字長久保・字長久保中通) |
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*'''[[緑ケ丘 (座間市)|緑ケ丘]]''' - 座間中学校が建設されたときに公募によって座間中学校の生徒が命名したものを選定<ref>『座間の地名』p124</ref>。 |
*'''[[緑ケ丘 (座間市)|緑ケ丘]]''' - 座間中学校が建設されたときに公募によって座間中学校の生徒が命名したものを選定<ref>『座間の地名』p124</ref>。 |
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*'''明王''' - [[不動明王]]の堂があったと伝えられる<ref>『座間の地名』p28,p68</ref>。 |
*'''明王''' - [[不動明王]]の堂があったと伝えられる<ref>『座間の地名』p28,p68</ref>。 |
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*'''[[広野台]]''' - 市内で最も人が住み始めたのが遅かった地。宅地化が進み人口が急増した[[昭和43年]]、[[昭和44年]]に |
*'''[[広野台]]''' - 市内で最も人が住み始めたのが遅かった地。宅地化が進み人口が急増した[[昭和43年]]、[[昭和44年]]、主に[[生麦|鶴見]][[川崎区|川崎]]・[[中原区|武蔵中原]]から移住してきた新住民達が中心となって、この地を﹁広野台﹂と居住者により通称され命名<ref>﹃座間の地名﹄p28</ref>。
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*'''[[小松原 (座間市)|小松原]]''' - [[マツ|小松]]の生えた原野を地籍簿作成にあたりつけられた<ref>『座間の地名』p50</ref><ref>『座間むかしむかし第1集・芝原の開墾』</ref><ref>『座間むかしむかし第3集・字名の起こり』</ref>。 |
*'''[[小松原 (座間市)|小松原]]''' - [[マツ|小松]]の生えた原野を地籍簿作成にあたりつけられた<ref>『座間の地名』p50</ref><ref>『座間むかしむかし第1集・芝原の開墾』</ref><ref>『座間むかしむかし第3集・字名の起こり』</ref>。 |
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*'''[[ひばりが丘 (座間市)|ひばりが丘]]''' - この地域は終戦直後に大字座間入谷飛び地と大字栗原字東原にまたがって人が住みはじめ、大字は違っていたが移住者たちは地域を一括りに自治会をつくった。その際自治会の名前を決めようと、役員一同が今の一丁目73番の林で会議をしている時、[[ヒバリ]]が多かったことから﹁雲雀ヶ丘﹂となり、小学校開設時に小学生にもわかりやすいように平仮名としたもの。よって一丁目73番は﹁ひばりが丘命名の地﹂である<ref>﹃座間の地名﹄p123</ref><ref>﹃座間むかしむかし第1集・芝原の開墾﹄</ref>。
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*'''[[ひばりが丘 (座間市)|ひばりが丘]]''' - この地域は終戦直後に大字座間入谷飛び地と大字栗原字東原にまたがって人が住みはじめ、大字は違っていたが移住者たちは地域を一括りに自治会をつくった。その際自治会の名前を決めようと、役員一同が今の一丁目73番の林で会議をしている時、[[ヒバリ]]が多かったことから﹁雲雀ヶ丘﹂となり、小学校開設時に小学生にもわかりやすいように平仮名としたもの。よって一丁目73番は﹁ひばりが丘命名の地﹂である<ref>﹃座間の地名﹄p123</ref><ref>﹃座間むかしむかし第1集・芝原の開墾﹄</ref>。
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