「慶長出羽合戦」の版間の差分
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→長谷堂城の戦い: 北東→北西 |
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戦況は最上軍有利で進んだが、やはり兵力の差は大きい。しかも上杉景勝に呼応して[[小野寺義道]]までもが、最上氏の属城である[[湯沢城]]を包囲攻撃し始めたのである。しかし、こちらの戦いにおいても城将の[[楯岡満茂]]が善戦し、小野寺軍は苦戦していた。 一方、直江兼続は畑谷城を落としたあと長谷堂城近くの菅沢山に陣を取る。そして、その大軍で今度は長谷堂城を包囲したのである。長谷堂城は[[山形盆地]]の西南端にある[[須川]]の支流・[[本沢川]]の西側に位置し、山形城からは このとき、長谷堂城は最上氏の重臣・[[志村光安]]以下1000名が守備していた。攻め手は直江兼続率いる上杉軍1万8000人。攻城戦に必要なのは城側より3倍多い兵力であるから、兵力に不足は無かった。そこで、直江兼続は即座に力攻めを敢行するが、志村はわずかな兵力でよく守った。それどころか、9月16日には200名の決死隊を率いて上杉側の[[春日元忠]]軍を夜襲する。これは同士討ちになるほどの大混乱になり最上軍は兼続のいる本陣にまで攻め寄るがさすがに本陣は守り堅く近寄ることが出来なかった。しかし最上軍は250人ほどの首を討ちとったという。 |