慶長出羽合戦

1600年に出羽国で行なわれた上杉景勝と最上義光・伊達政宗の戦い

慶長出羽合戦(けいちょうでわかっせん)は、慶長5年(1600年出羽国で行なわれた上杉景勝(西軍)と最上義光伊達政宗(東軍)の戦いで、「北の関ヶ原」といわれる。東軍が勝利した。

慶長出羽合戦
戦争関ヶ原の戦い
年月日1600年
場所:出羽国(山形県)
結果:最上・伊達連合の勝利、上杉軍の撤退及び最上氏の旧領回復
交戦勢力
上杉軍上杉氏竹に雀(西軍) 最上・伊達連合軍(東軍)
指導者・指揮官
直江兼続
水原親憲
色部光長
春日元忠
小野寺義道
志駄義秀
前田利益
最上義光
留守政景
志村光安
鮭延秀綱
江口光清
戦力
25,000(上杉軍本隊)
約3,000(庄内上杉軍)
7,000(最上軍)
約3,000(伊達軍)
損害
不明(623?/約2100?) 1580 
関ヶ原の戦い

上杉氏と最上氏

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12158414158615158716158881815901512

315982120西

1

発端

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516006724西西西7[1]

91姿[1]

上杉軍出陣

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上杉軍の攻勢により落城した最上氏拠点

5982500070004000

912500退

西

1000

9174000[2]500400

退西915918沿


長谷堂城の戦い

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直江兼続隊の想定進路

西西西8西西915[3]16

100018000310915916200250

917

92139242km925929

撤退戦

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撤退戦の概略図

29西退930101退殿103退104

退駿

101退11

仙北・庄内地方の戦い

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9使退11[4]

616013

戦後

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西鹿5761601511[5]

退退2

30

慶長出羽合戦における兵数について

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長谷堂城の戦いについては、当時の良質の史料がほとんど残されておらず、兵数も後世の軍記などに頼ることになるが、これらは誇張された部分も多く、それぞれに数の開きがあって確実な兵数は不明といわれる。例えば、上杉軍撤退の時の双方の死傷者は、最上側では「味方の戦死者623人敵の戦死者1580人」とするが、上杉側は「敵の戦死者2100余り」としている。


脚注

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注釈

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(一)^ [2]

(二)^ 

(三)^ 西[3]

出典

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  1. ^ 阿部 2017, pp. 77–80.
  2. ^ 片桐 2002.
  3. ^ 遠藤ゆり子「慶長五年の最上氏にみる大名の合力と村町―大名の有縁性と無縁性―」『日本史研究』第486号、2003年。 /改題所収:遠藤 2016, 「慶長五年の最上氏にみる大名の合力と村町」
  4. ^ 阿部 2017, pp. 81–87, 89.
  5. ^ 阿部 2017, p. 88.

参考文献

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  1996 

2016ISBN 978-4-642-02930-8 

2002 

452016 /: ︿ 2017ISBN 978-4-86403-257-5