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{{基礎情報 公家
{{文学}}▼
| 氏名 = 文屋 康秀
| 画像サイズ = 200px
| 画像説明 = 文屋康秀([[百人一首]]より)
| 時代 = [[平安時代]]前期
| 生誕 = 不明
| 死没 = [[仁和]]元年([[885年]])?
| 改名 =
| 別名 = 文琳
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[正六位|正六位上]]・[[縫殿寮|縫殿助]]
| 主君 = [[陽成天皇]]
| 氏族 = [[文室氏]]
| 父母 =
| 兄弟 =
| 妻 =
| 子 = [[文屋朝康|朝康]]
| 特記事項 =
}}
'''文屋 康秀'''︵ふんや の やすひで︶は、[[平安時代]]前期の[[官人]]・[[歌人]]。'''文琳'''とも。[[官位]]は[[正六位|正六位上]]・縫殿助。[[六歌仙]]および[[中古三十六歌仙]]の一人。 官人としては[[元慶]]元年([[877年]])[[山城国|山城]][[掾|大掾]]、元慶3年([[880年]])縫殿助に任官したことが伝わる程度で卑官に終始した。▼
== 経歴 ==
﹃[[古今和歌集]]﹄仮名序では、﹁詞はたくみにて、そのさま身におはず、いはば商人のよき衣着たらんがごとし﹂と評される。[[勅撰和歌集]]には﹃古今和歌集﹄5首と﹃[[後撰和歌集]]﹄1首が入集するが、﹃古今集﹄の2首は子の朝康の作ともいわれる。[[小野小町]]と親密だったとされ、[[三河国]]に赴任する際に小野小町を誘ったと言われている。小町の答えは﹁誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ﹂と好意的であったという。▼ ▲[[官人]]としては、[[陽成天皇|陽成朝]]にて[[元慶]]元年︵[[877年]]︶[[山城国#国司|山城 ▲﹃[[古今和歌集]]﹄仮名序では、﹁詞はたくみにて、そのさま身におはず、いはば商人のよき衣着たらんがごとし﹂と評される。[[勅撰和歌集]]には﹃古今和歌集﹄ ==代表作==▼
*吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ▼
[[小野小町]]と親密だったといい、[[三河国司#三河掾|三河掾]]として同国に赴任する際に小野小町を誘ったという。それに対し小町は﹁わびぬれば 身をうき草の 根を絶えて 誘ふ水あらば いなむとぞ思ふ﹂︵=こんなに落ちぶれて、我が身がいやになったのですから、根なし草のように、誘いの水さえあれば、どこにでも流れてお供しようと思います︶と歌を詠んで返事をしたという。のちに﹃[[古今著聞集]]﹄や﹃[[十訓抄]]﹄といった説話集に、この歌をもとにした話が載せられるようになった。 ▲== 代表作 ==
▲*吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ(小倉百人一首・22番)
*春の日の光にあたる我なれど 頭の雪となるぞわびしき
== 官歴 ==
『古今和歌集目録』による。
*[[貞観 (日本)|貞観]]2年([[860年]]) 3月20日:[[刑部省|中判事]]
*時期不詳:[[三河国#国司|三河掾]]
*[[元慶]]元年([[877年]]) 正月15日:[[山城国#国司|山城大掾]]
*元慶3年([[880年]]) 5月28日:[[縫殿寮|縫殿助]]
== 脚注 ==
{{reflist|2}}
== 関連項目 ==
▲{{Portal|文学}}
* [[強情灸]]
▲{{Wikiquote|{{PAGENAME}}}}
{{百人一首}}
{{DEFAULTSORT:ふんや の やすひて}}
[[Category:文室氏|やすひて]]
[[Category:平安時代の歌人]]
[[Category:小倉百人一首の歌人]]
[[Category:9世紀生]]
[[Category:9世紀没]]
▲[[en:Fun'ya no Yasuhide]]
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