斯波園女
江戸前期から中期の女流俳人
斯波 園女︵しば そのめ、寛文4年︵1664年︶ - 享保11年4月20日︵1726年5月21日︶[1]︶は江戸時代の俳人。伊勢国山田︵現在の三重県伊勢市︶出身[1]。本姓は度会氏、剃髪後は智鏡と称する[1]。
斯波園女 | |
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![]() 栗原信充による肖像 | |
誕生 |
1664年 伊勢国 山田 |
死没 | 1726年5月21日 |
職業 | 俳諧師、雑俳点者、眼科医 |
ジャンル | 俳句 |
代表作 | 「菊の塵」「鶴の杖」 |
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来歴
伊勢山田の神官の秦師貞に生まれ[1]、同地の医師・斯波一有︵別号、渭川︵いせん︶︶に嫁す[1]。元禄2年︵1689年︶松尾芭蕉門に入門したとされるが[1]、実際は貞享5年︵1688年︶に芭蕉から句を得た際に入門したと考えられる[1]。蕉門の俳書﹃阿羅野﹄︵元禄2年刊︶﹃其袋﹄︵元禄3年︶に入集するが[1]、それ以降は芭蕉の俳書にはあまり入集していない[1]。
元禄5年︵1682年︶夫と大坂に移住している[1]。この時、井原西鶴から園女を讃える詞書と﹁浜萩や当風こもる女文字﹂の句を送られた[1]。元禄7年︵1694年︶9月27日、園女は折から大坂を訪れていた芭蕉を自宅に招き、芭蕉はそこで﹁白菊の目に立てゝ見る塵もなし﹂と発句を詠み、園女が﹁紅葉に水をながす朝月﹂と脇を付け、九吟歌仙一巻が巻かれた[1]。これが芭蕉最後の歌仙興行となった[1]。大坂時代が最も俳人として活躍した時期であり[1]、前句付けの雑俳点者として活躍した[1]。
元禄末から宝永2年︵1705年︶頃に夫が死去[1]、宝永2年︵1705年︶に稲津青流の仲介で江戸の宝井其角を頼って上京する[1]。眼科医を家業としながら俳諧を続け、宝永3年︵1706年︶から宝永5年︵1708年︶の間に処女撰集﹃菊之塵﹄を完成させる[1]。
正徳年間には深川八幡に36本の桜の植樹を寄進しているが、これは後々まで﹁歌仙桜﹂として江戸っ子に親しまれた[要出典]。享保3年︵1718年︶剃髪し[1]、智鏡と号した[1]。晩年は和歌に親しみ、享保7年︵1722年︶と享保9年︵1724年︶に伊勢神宮へそれぞれ1030首の和歌を奉納した[1]。
辞世の歌は﹁秋の月春の曙見し空は夢か現かなむあみだ仏﹂[1]。墓所は江東区白河の雄松院[1]。
編著に﹃菊のちり﹄﹃鶴の杖﹄がある。
著名な句
性格や行動には男性的面があったようで、筆跡も雄渾な男性的な筆致である[1]。句は素直で淡泊な味わいと評される[1]。
- 夜あらしや太閤様の桜狩(『俳家奇人談』)
- 衣更えわざと隣の子をだきに(『柏原集』)
- みどり子を頭巾でだかん花の春(『住吉物語』)
- 大根に実の入る旅の寒さかな(『小弓俳諧集』)
脚注
参考文献
- 小学館『近世俳句俳文集』
- ジャンボール絹子『俳諧師園女の生涯』(永田書店)