村上鬼城
日本の俳人
村上 鬼城(むらかみ きじょう、1865年6月10日(慶応元年5月17日) - 1938年(昭和13年)9月17日)は日本の俳人、司法代書人。本名は村上 荘太郎(むらかみ しょうたろう)。
村上鬼城 (むらかみ きじょう) | |
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誕生 |
1938年9月17日![]() |
死没 |
1938年9月17日(73歳没)![]() |
職業 | 俳人・司法代書人 |
言語 | 日本語 |
国籍 |
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ジャンル | 俳句・短歌 |
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略歴
鳥取藩士、小原平之進の長男として江戸に生まれるが、8歳の時、群馬県高崎市に移り住み、11歳の時に母方の村上家の村上源兵衛の養子となり村上姓を名乗る。
明治17年︵1884年︶に東京へ行き、軍人を志したが耳疾のために断念し、明治法律学校︵明治大学の前身︶で法学を学びながら、司法代書人︵司法書士の前身︶となった。父の勤務先である高崎裁判所司法代書人となる。以後、鬼城は亡くなるまでの一生を高崎で過ごした。
その傍らで俳句を嗜み、広島市の大本営にいた正岡子規に教えを請い、また幾度となく﹃ホトトギス﹄に俳句の投書を行っていた。
子規の死後、彼は﹃ホトトギス﹄主宰である高浜虚子から句を見てもらうことになるが、高崎での俳句会で虚子の推輓を受ける。それが契機となって1913年︵大正2年︶から﹃ホトトギス﹄の同人活動を始め、1918年︵大正7年︶に自身の作品が入選。以後は司法代書人の傍ら、俳人、また撰者としても敏腕を振るうことになった。
8人の娘と2人の息子を設け子宝に恵まれたが、生活は絶えず困窮していたという。しかしながら人脈は深く、51歳の時に代書人を解雇された時には、虚子門下の弁護人を立てて復職を遂げている。
1938年︵昭和13年︶、74歳で死去。墓所は高崎の龍広寺。
作風
作品
- 冬蜂の死にどころなく歩きけり
- 闘鶏の眼つぶれて飼われけり
- 鷹のつらきびしく老いて哀れなり
- 生きかはり死にかはりして打つ田かな
- ゆさゆさと大枝ゆるる桜かな
など、動物や自然に対するを詠んだ歌が多い。
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句集
- 『鬼城句集』
- 『定本鬼城句集』
外部リンク
参考文献
- 『俳句人名辞典』 常石英明編著 金園社