柏木如亭
柏木如亭︵かしわぎ じょてい、宝暦13年︵1763年︶-文政2年7月11日︵1819年︶︶は、江戸時代の漢詩人である。
はじめ、名は謙、字は益夫、通称は門作といった。のち、名は昶、字は永日とあらためる。号ははじめ舒亭と名乗り、後に如亭とする。
生涯
江戸にうまれる。生家は幕府小普請方の大工の棟梁であった。市河寛斎の江湖詩社に参加し、1793年︵寛政5年︶、最初の詩集﹃木工集﹄を刊行し、性霊派の新進詩人として知られるようになった。翌年、家督を一族のものに譲り、棟梁職を辞し、専業詩人として生きることになった。
遊歴の詩人として生きる如亭は、まず信州中野︵長野県中野市︶に居を定め晩晴堂と名づけ、晩晴吟社をひらき、近隣の人びとと詩作に励んだ。この間、越後を遊歴もしていた。
1801年︵享和元年︶、江戸にもどり、芝に住む。その後、1807年︵文化4年︶、西に向かい、京都をはじめ、備中庭瀬︵岡山市︶に滞在もした。京都では頼山陽や浦上春琴、小石元瑞らとの交友があり、また豊後竹田の田能村竹田とも交わった。
1814年︵文化11年︶ふたたび江戸にもどり、大窪詩仏のところに寄寓する。しかし、江戸の詩風は如亭にあわず、ふたたび遊歴の旅に出ることになる。信越各地をまわり、1818年︵文化15年︶、京都に帰ってきたのであった。東山黒谷に紫雲山居を構え、いちおうの根拠地としたが、生活のためには、各地を巡歴し、潤筆料をかせぐこととなった。その間、年少の梁川星巌と交流をし、みずからの死後には遺稿の出版も頼んでいる。
持病の水腫が悪化し、文政2年7月11日︵1819年︶に、京都で没した。
没後、星巌は、約束を果たし、﹃如亭山人遺稿﹄、﹃詩本草﹄を刊行し、如亭の業績を後世に伝えるために尽力した。
評価
中村真一郎の﹃頼山陽とその時代﹄︵中公文庫、1976年︶によれば、日夏耿之介は如亭をシャルル・ボードレールに比較したという。
中村自身は、同著で、﹁人生に対して鑑賞的態度を持した、感覚的快楽主義者﹂︵中巻p296︶と評している。詩に関しても、﹁頽廃的な放浪詩人は、同時にまた素晴らしい批評的な知性の所有者﹂︵中巻p297︶とも称している。