田畑修一郎
経歴 編集
島根県美濃郡益田町︵現益田市︶に生まれる。3歳の時に母が病死、9歳の時に銀行支店長だった父も自殺し[1]、旅館を営む田畑キクの養子になる。早稲田大学英文科に入学するも中退。その後、宇野浩二に師事する。また、火野葦平・寺崎浩・丹羽文雄らと﹁街の会﹂を作り、同人雑誌﹃街﹄を創刊する[2]。
1933年に自伝的創作﹃鳥羽家の子供﹄を発表。﹃鳥羽家の子供﹄は、芥川賞の候補作となり、同じく候補作であった中山義秀の﹃厚物咲﹄と競うも落選する。
将来を望まれたが、岩手県盛岡市へ取材中の1943年7月20日に体調を崩して急性盲腸炎となり、日赤盛岡病院に入院するが、7月23日に心臓麻痺のため死去。享年41歳[3]。戒名は文誉修道居士[4]。墓所は小平霊園(19-8-41)。
地元益田市にある﹁益田市立歴史民俗資料館﹂に﹃出雲石見﹄の執筆原稿や初版本などの資料が展示されている。