「田辺城 (丹後国)」の版間の差分
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{{main|田辺城の戦い}}
[[1600年]]︵[[慶長]]5年︶[[関ヶ原の戦い]]が勃発すると、当主になっていた細川忠興は[[石田三成]]率いる西軍の誘いを退け、[[徳川家康]]率いる東軍に加勢した。隠居していた藤孝は自分の居城である宮津城では西軍の攻勢を防げないと考え、宮津城を焼き払い、田辺城に入城、西軍を迎え撃った。田辺城は石田三成の家老[[島清興]]の親族にあたる[[小野木重勝]]や豊臣家の重臣[[前田玄以]]の子[[前田茂勝|茂勝]]が率いる西軍・1万5千人に包囲されると、50日に及ぶ戦となった。戦闘の末、藤孝は自身のもつ﹁古今伝授の書﹂が戦火で忘却されるのを恐れ、それを[[後陽成天皇]]に献上した。藤孝の戦死を憂いた後陽成天皇の仲介で西軍は攻撃をするのをやめ、命を助けられた。田辺城を開城した藤孝は敵将前田茂勝の丹波亀山城に入った。なお、7月15日に田辺城に入城した[[三刀谷孝和]]の見聞と叙述を記述したものが﹃[[三刀谷田辺記]]﹄である。子細な城内事情を詳しく伝えており、当時の一般部将の時局認識の素朴な実態を物語ったものである。 === 江戸時代 ===
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