真渓涙骨
真渓 涙骨(またに るいこつ、1869年3月9日(明治2年1月27日) - 1956年(昭和31年)4月14日[1])は日本の宗教思想家、ジャーナリスト、宗教専門紙『中外日報』創刊者。
経歴 編集
福井県敦賀市の浄土真宗本願寺派寺院に長男として生まれる。本名は正遵︵しょうじゅん︶。京都西本願寺の普通教校に16歳で入学するが間もなく退学し、学徳兼備の名僧として知られた博多万行寺の七里恒順に約3年師事。その後、各地を遍歴しながら文筆修行を積んだ。
1897年︵明治30年︶10月1日、仏教および宗教界の革新を志し、京都で超宗派の宗教新聞﹃教学報知﹄を創刊。1902年︵明治35年︶、報道範囲を拡大し﹃中外日報﹄と改題。明治から昭和にかけての60年間、同紙の社主として不偏不党の立場から気骨ある論陣を展開し、近代日本の宗教・思想界に影響を与えた。
1914年︵大正3年︶から1956年︵昭和31年︶まで﹃中外日報﹄にほぼ毎号執筆した日誌︵﹁編輯日誌﹂︶では、宗教界や社会の動向、人物評、箴言など、僧俗・宗派の枠を超えて縦横無尽に筆をふるい、幅広い読者層の心をとらえた。
晩年は京都の禅宗寺院、大徳寺塔頭瑞峯院と建仁寺僧堂内左辺亭に仮寓した。墓所は瑞峯院にあり、年忌法要︵涙骨忌︶は毎年交互に両寺で営まれている。