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{{出典の明記|date=2019年7月}}
{{基礎情報 中国君主
|名 =神宗 趙頊
|代数 =第6代
|呼称 =皇帝
|画像 =[[ファイル:Shenzong
|説明 =
|王朝 =北宋
|在位期間 =[[治平 (宋)|治平]]4年[[1月8日 (旧暦)|1月8日]] - [[元豊 (宋)|元豊]]8年[[3月5日 (旧暦)|3月5日]]<br />([[1067年]][[1月25日]] - [[1085年]][[4月1日]])
|都城 =[[開封府|開封]]
|諱 =趙仲鍼<br />趙頊(立太子時改名)
|字 =
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|諡号 =体元顕道法古立憲帝徳王功英文烈武欽仁聖孝皇帝
|廟号 =神宗
|生年 =
|没年 =
|父 =[[英宗 (宋)|英宗]](長子)
|母 =[[宣仁皇后|宣仁聖烈皇后高氏]]
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|年号 =[[熙寧]] : [[1067年]] - [[1077年]]<br />[[元豊 (宋)|元豊]] : [[1078年]] - [[1085年]]
|注釈 =
|子=[[趙佶]]}}
'''神宗'''(しんそう)は、[[北宋]]の第6代[[皇帝]]。
== 生い立ち ==
[[1066年]]に[[皇太子]]となり、翌年に[[英宗 (宋)|英宗]]の崩御により即位した。<!--︵神宗は父の英宗が傍流出身だったため、少年期はやや不遇な時代をすごした。その折、朝廷内部や官界・政界の様子を外から見られたことが、改革実行時に役立った。︶ == 王安石の登用 ==
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しかし、改革は大地主や大商人をはじめ、皇族などの既得権益を犯す内容を含んでいたため、保守派から大きな反対運動が引き起こされた。官界でもその反対運動に参加するグループ︵後に'''旧法派'''と称される︶が誕生し、[[労働争議#サボタージュ|政務放棄]]により王安石へ対抗する。 王安石は宰相の権限を活用し、これらの反対勢力を徹底的に押さえ込んだ。そして[[司馬光]] 神宗はこの旧法派の勢力に動揺したが、王安石による説得も行われ、新法運動は継続されてゆく。また新法実施地域を全国に拡大し、さらなる改革が行われた。また、旧法派に対抗するため王安石派の[[呂恵卿]]や[[曾布]]などの実務官僚を次々と抜擢していった。 しかし[[熙寧]]7年︵[[1074年]]︶、天災が相次ぎ、また新法派内部で政策意見の不一致が発生したことから、神宗は王安石を解任する。それでも王安石の同僚だった[[韓絳]]や腹心の 再度任用された王安石は、周辺諸国との外交交渉と貿易振興により辺境の安定を求め、軍事費を大幅に削減することに成功する。国内では旧法派を押さえ込んで新法の実施地域を拡大したことと銅銭大量発行効果が出てきたことで国家財政も好転、また賦税の負担を少なくすることで農村共同体の再生に成功し、治安も改善された。 しかし、今度は王安石を支持する新法党に内部分裂が発生し、権力闘争が引き起こされた。また、後継者である == 元豊への改元 ==
[[元豊 (宋)|元豊]]と改元されると、改革は神宗が主導することで断続的に継続した︵[[元豊の改革]]︶。内部分裂した新法派も、神宗が直接統治を行ったことや、[[蔡確]]という実務官僚が登場してきたことにより、意見の集約が進むこととなった。神宗は既存の新法に加えて、改革により発生した財政的な余裕を活用した政策を実施していく。国内政府をより効率的に動かせるために官僚の員数を大幅に削減し、また朝廷による官僚管理も進められた。さらに[[青苗法]]や[[市易法]]などを一層改善し、民間経済に朝廷の影響力を強める施策がとられた。また王安石との相違点としては、軍事方面に注力したことが挙げられる。 元豊時代の政策は、神宗独自のものであると捉えられることがあるが、軍事面以外の政策は基本的に王安石の政策と類似したものであり、この時期の改革は新法を実情に合わせて修正したものである。そして神宗治世後半には新法が全国に適用され、 西夏との敗北を期に健康を害した神宗は、元豊8年︵[[1085年]]︶に38歳で崩御する。故郷で新法改革の進展を見ていた王安石は、神宗崩御の知らせを受けるやそのまま病床に就き、旧法派の[[宣仁皇后|宣仁太后]]が政権を掌握して新法を廃止したことを知り、そのまま病死した。神宗の死を境に、宋は急速に衰退していくこととなった。 == 評価 ==
神宗は王安石を任用して新法改革を行い、宋を一時的に中興したことで高く評価されるが、その改革を巡って士大夫の党争が激しくなり、官人たちを分裂させ、また新法改革の﹁継承﹂にも失敗した面から、 南宋において、北宋滅亡の原因は神宗による王安石変法と見なされ、後世の批判を受けることもあった。
== 在位中の宰相 ==
*[[韓琦]]
*[[曾公亮]]
*[[富弼]]
*[[陳旭]]
*[[韓絳]]
*[[王安石]]
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*[[蔡確]]
*[[韓縝]]
*[[呂恵卿]](参知政事)
== 妻妾 ==▼
*正室:[[欽聖皇后|欽聖憲粛皇后]]向氏▼
*側室:[[欽成皇后]]朱氏、[[欽慈陳皇后|欽慈皇后]]陳氏▼
#恵王趙僅 - 夭折▼
#唐哀献王[[趙俊]] - 夭折▼
#褒王趙伸 - 生後間もなく夭折。▼
#冀王趙僩 - 夭折▼
#延安王趙傭 - 後の[[哲宗 (宋)|哲宗]]趙煦。母は欽成皇后朱氏。▼
#豫悼恵王趙價 - 夭折▼
#徐沖恵王趙倜 - 夭折▼
#儀王趙偉 - 生後間もなく夭折。母は婕妤郭氏。▼
#越王[[趙偲]] - 神宗の遺腹の末子。母は賢妃林氏。▼
# 延禧公主([[淑懐帝姫]]) - 母は欽聖皇后向氏。早世。▼
# 燕国長公主(賢穆帝姫)▼
# 潭国長公主([[賢孝帝姫]]) - 母は貴妃宋氏。▼
# 潞国公主(賢寧帝姫)▼
# 鄆国公主([[賢康帝姫]])▼
# 邢国長公主([[賢令帝姫]])▼
# 嘉国長公主([[賢和帝姫]])▼
# 徐国長公主([[賢静帝姫]]) - 母は欽成皇后朱氏。▼
*側室:朱徳妃(贈[[欽成皇后]])
**十三男:楚栄憲王 [[趙似]]
**十一男:端王 趙佶([[徽宗]]) - 第8代皇帝
*側室:婕妤 [[林貞]](贈貴妃)
**十二男:燕王 [[趙俁]]
*側室:賢妃武氏(贈[[恵穆貴妃]])
**九男:呉栄穆王 [[趙佖]]
*側室:貴妃宋氏
**長男:成王 趙佾 - 夭折
*側室:婉儀邢氏(贈[[懿穆貴妃]])
*側室:婉容張氏(贈懿静淑妃)
**次女:宝慶公主([[賢恪帝姫]]) - 夭折
*側室:楊氏(贈[[懿静貴妃]])- 即位前の側室
*側室:昭儀勾氏
*側室:婕妤朱氏
*側室:婕妤郭氏
*側室:美人 [[銭格非]](贈婕妤)
*側室:郜蔡奴
*側室:景氏
*生母不詳の子女
**三女:燕国長公主(賢穆帝姫) - [[韓琦]]の子の[[韓嘉彦]]に降嫁した。
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{北宋・南宋の皇帝|北宋|第6代:1067年 - 1085年}}
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{{DEFAULTSORT:しんそう}}
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