細川韶邦
幕末~明治初期の大名(1835 - 1876)
細川 韶邦︵ほそかわ よしくに、天保6年6月28日︵1835年7月23日︶ - 明治9年︵1876年︶10月23日︶は、江戸時代末期の大名。肥後国熊本藩の第11代藩主。第10代藩主・細川斉護の次男で、細川護久の兄。正室は一条忠香の養女︵三条実万の娘︶。官位は正四位、越中守、中将。
幼名は訓三郎、六之助。名はほかに護順、慶順。万延元年︵1860年︶、父・斉護の死によって家督を継ぎ、新たな藩主に就任する。尊皇攘夷には消極的な人物で、文久2年︵1862年︶に肥後勤王党が分裂したのを契機として藩論を尊王論に統一した。慶応2年︵1866年︶、長州藩の高杉晋作が小倉藩を攻撃したとき、小倉藩側に与して戦ったが、隣国の薩摩藩などの動向が気にかかることもあって、わずかに戦って敗れた後、即座に撤退している。慶応4年︵1868年︶、新政府側に与する意思を示すため、慶順から名を改めた。慶順は第12代将軍・徳川家慶から一字を賜ったものであり、それを返上したのである。
明治維新後は熊本藩知事となったが、明治3年︵1870年︶に弟の護久にその座を譲って隠退した。
明治9年︵1876年︶、42歳で死去した。
|
|
|