鈴木翠軒
経歴・業績 編集
愛知県渥美郡堀切村︵現在の田原市堀切町︶に生まれる[1]。1903年愛知県立第四中学校︵現在の愛知県立時習館高校︶を卒業後[1]、1910年愛知県立第一師範学校へ進学[1]。翌年卒業して地元の小学校の訓導となる[1]。1916年文部省習字科検定試験に合格すると、1919年に上京して丹羽海鶴に師事した[1]。この時、比田井天来にも教えを乞う[1]。1932年、﹃国定甲種小学書方手本﹄の揮毫者となり[1]、1938年に完成させる。この国定教科書の書風は、その明快な用筆と結体により絶賛され﹁翠軒流﹂として世の中に広まった[1]。戦後は、1948年に日展第1回審査員[1]、1950年日本書作院会長[1]などの要職を歴任する一方で、1957年﹁禅牀夢美人﹂で日本芸術院賞を受賞[1]。1960年には日本芸術院会員となる[1]。この頃から仮名作品の発表も増え、1966年の﹁万葉千首﹂は、不朽の名作とされる[1]。1968年文化功労者[1]、1974年勲二等瑞宝章受章[1]。1976年、心不全のため東京都済生会中央病院で死去。87歳[2]。
弟子としては、中川雨亭︵国際アカデミー賞受賞、室戸市名誉市民︶が有名である。