阪井久良伎
阪井 久良伎︵さかい くらき、明治2年1月24日︵1869年3月6日︶ - 昭和20年︵1945年︶4月3日︶は川柳作家である。別名‥阪井 久良岐︵さかい くらき︶、徒然坊、坂井 弁︵さかい わかち︶、酒井 弁︵さかい わかち︶、本名‥阪井 弁︵さかい わかち︶[1][2]。井上剣花坊とともに川柳革新運動を行った。
神奈川県久良岐郡野毛︵現在の横浜市中区野毛町︶に生まれる。本名、辨︵わかち︶、父は税関役人であった。共立英語学校、東京高等師範国文科在籍中より、石城、徒然坊の筆名で漢詩・和歌の投稿を行った。明治29年︵1896年︶報知新聞に入社、翌年新聞﹃日本﹄に入社する。﹃旧派歌人十余家の自賛歌十首﹄を連載し、この記事は正岡子規の反発を受け、子規の﹃歌よみに与ふる書﹄が執筆される機縁となった。明治36年︵1903年︶﹃日本﹄の川柳壇の選者を務め、﹃川柳梗概﹄を執筆し川柳の革新運動を始める。同年、井上剣花坊が﹃日本﹄に入社し、新川柳を担当したため、﹃電報新聞﹄︵後に毎日新聞に買収される︶で川柳壇を担当した。明治37年︵1904年︶、久良岐社を創立し、川柳誌﹃五月鯉﹄を創刊した。﹃五月鯉﹄は明治40年に刊行にゆきづまるが、その後、川柳誌﹃矢車﹄の序文に寄稿し、明治42年に﹃獅子頭﹄、大正3年に﹃川柳文学﹄を創刊した。
江戸期の川柳・狂句が滑稽・風刺に偏ったことを改め、風俗詩としての川柳を主張した。
代表句としては﹁一寸粋なミッスの通る薔薇垣根﹂﹁トタン葺き春雨を聞く屋根でなし﹂などがある。墓所は青山霊園(1ロ14-4)。
脚注
編集- ^ “阪井, 久良伎, 1869-1945”. Web NDL Authorities(国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス). 国立国会図書館 (1998年6月4日). 2014年9月4日閲覧。
- ^ “阪井, 弁, 1869-1945”. Web NDL Authorities(国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス). 国立国会図書館 (1998年6月4日). 2014年9月4日閲覧。
参考文献
編集- 『川柳の群像 明治・大正・昭和の川柳作家100人』東野 大八 (著) 田辺 聖子 (監修) 集英社 (2004年) ISBN 4087812855
- 『俳句と川柳』復本 一郎 (著) 講談社現代新書 (1999年) ISBN 4061494783