須永英輝
北海道日本ハムファイターズ #13 | |
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基本情報 | |
国籍 |
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出身地 | 東京都荒川区 |
生年月日 | 1985年10月28日(38歳) |
身長 体重 |
181 cm 79 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 2003年 2巡目 |
初出場 | 2004年6月16日 |
年俸 | 780万円(推定) |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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人物・来歴
プロ入り前
小学生の頃から野球を始めた。当時はサッカーもしていた。2001年、浦和学院に進学。大竹寛︵現広島東洋カープ︶の引退後、1年秋からエースを務め、2002年春・夏、2003年春の甲子園大会に出場している。
2002年のセンバツでは、平安高校に快勝し、ベスト8に進出。優勝した報徳学園に敗れている。大会通算63奪三振。
2002年夏は報徳学園に勝利した。しかし2回戦で鎌倉健を擁する川之江高校にサヨナラ負けを喫した。打撃にも非凡なものを見せており、新チームではクリーンナップの一角に座り、投げない時は右翼手で出場していた。
秋は関東大会の決勝まで駒を進めたが、成瀬善久︵現千葉ロッテマリーンズ︶・涌井秀章︵現・西武ライオンズ︶の所属する横浜高校に惜敗し、準優勝。
翌2003年のセンバツでは、21世紀枠の隠岐高校に勝利した。次戦で智弁和歌山戦と対戦。延長12回222球目を、智弁和歌山のエース・本田将章に本塁打を打たれサヨナラ負け。甲子園では3敗したが、いずれもサヨナラ負けを喫している。
その後春は関東大会を優勝。夏の埼玉大会では、準決勝で聖望学園にサヨナラ負け。最後の夏は甲子園に出場せずに、高校野球生活の幕を閉じた。
ドラフト会議
2003年のドラフト会議前には、読売ジャイアンツ入りを志望。当初はヤクルトスワローズなども指名を示唆していたが、他球団に指名されたら社会人野球に進むと発言していたために、撤退する球団が多かった。実際の会議では、2巡目で日本ハムが指名を行った。
この時本人は、心境を﹁灰色﹂と表現しており、当初は挨拶に訪れたスカウトとの面会すら避けていた。しかし初交渉の際は、心境を﹁白﹂と表現。最終的に日本ハムへの入団を決意し、心境を﹁バラ色﹂とした。後に、日本ハムに来てよかったと発言している。
プロ入り後
イースタン・リーグで6月途中までに6勝を挙げ、大器の片鱗を見せつけた。一軍先発陣の不調もあり、6月16日の対千葉ロッテマリーンズ戦で一軍初先発。しかし3回7失点でプロの洗礼を浴びた。一軍では結果を残せなかったが、二軍では最終的に10勝を挙げ、イースタン最多勝利となっている。
先発した試合で後続の失点で初勝利を逃した後、先発ローテーションの関係で二軍調整中に調子を崩してしまった。以後閉幕まで一軍登板なく、結局2年連続で1試合に先発したのみに終わった。
3試合にリリーフとして登板するも、計1回1/3イニングで自責点8、防御率54.00とあって結果を出したとは言い難い。3月中に2試合登板した後、6月2日の阪神タイガース戦を最後に、一軍では投げていない。6月14日の対横浜ベイスターズ戦では、フェルナンド・セギノールの代走として出場した。
家族
背番号
- 13(2004年~)
通算成績(2007年シーズン終了時)
試合11(代走出場含む) 登板10(うち先発4) 投球回29 勝利0 敗戦2 セーブ0 失点22 自責点22 防御率6.83