前述の通り、家譜において享禄年間︵1528年 - 1532年︶以前の高力氏は、熊谷直鎮が三河国八名郡の地頭権を得て以来同郡に居住し、重実の代より宇利庄に移住、文明年間︵1469年 - 1486年︶に宇利城を築城したとされる[10]。実長の代より宇利熊谷氏として今川氏に臣従していた。
ただし、享禄年間以前にも高力氏が高力郷に居住していたことを示す文献、また、高力氏と南朝に関する伝承︵後述︶が存在する。
高力氏は、寛正6年︵1465年︶に発生した額田郡一揆に参加したとする文献がある。﹃今川記﹄には一揆の概要が記されており、その中に、一揆の構成員として丸山氏・尾尻氏・芦谷氏らとともに高力氏の名前が挙げられている[11]。これら一揆の参加者は、蜷川親元の日記︵﹃親元日記﹄︶、寛正6年︵1465年︶五月の条に記されている﹁額田郡牢人交名之注文﹂とほぼ一致しており、信憑性に問題があるとされる﹃今川記﹄の中でも一揆の概要は信用できるとされる[12]。
忠房の代である元和5年︵1619年︶、高力氏は3万石に加増され、遠江国浜松藩主となった[5]。また、忠房の次男であり寛永7年︵1630年︶に幕府・中奥の小姓となった長房が同年2月15日に死去したが、この日、幕府は小姓の身分である長房に対して朽木稙綱を弔わせており、幕府が重長・重正の働きや清長の譜代の忠勤を配慮したもの、あるいは高力氏を重要視していたものと推測される[6]。
寛永16年︵1639年︶、忠房は島原の乱の責任を問われて改易となった松倉勝家の後を受け、4万石への加増をもって島原藩主となる[5]。また、このとき忠房は島原藩主のほかに﹁西国目付役﹂という役職も与えられたとされる[6]。藩内において、忠房は荒廃した領内農村の復興や他領からの移住民受け入れ、領内の寺社の創設あるいは再興といった政策を行った[5]。忠房は明暦元年︵1655年︶、参勤先の江戸から島原に戻る途中、京都で死去した[5]。
忠房の死去に伴い、忠房の息子・隆長︵高長︶が高力家の家督を継いだ。隆長は藩の財政再建目的で領民に苛税を強いるなどの失政を行い[20]、また、失政を咎めた家臣である志賀玄蕃允をその場で殺し、江戸にいた玄蕃允の妻子を殺害したとされる[6]。これらの行為もあり、高力氏は寛文7年︵1667年︶、諸国巡見使の九州巡見の際に領民に苛政を訴えられたことによって、寛文8年︵1668年︶2月27日、改易となった[21]。改易により、隆長は仙台藩へ蟄居となり扶持米1,000俵を扶助された[6]。
高力政房家は、忠房の三男・政房より分家した家である。兄・隆長が蟄居の処分となった際、政房には処分がなく、出羽国村山郡に3,000石の知行を与えられた[6]。3代・長氏、4代・定重は真田氏からの養子であり、5代・長行は妻木氏から養子として迎えられた後、小姓組番頭、書院番頭、駿府城在番の留守居を勤め、摂津守、若狭守を叙任された[22]。その後、政房家は6代・直賢、7代・直道、8代・直行と、創始以来6人の養子を迎えて幕末まで存続した[22]。
﹃山辺町史﹄によれば、政房家の知行地は、天明8年︵1788年︶から天保10年︵1839年︶の期間幕領となり、それ以後再び高力領となった。なお、知行地が幕領となった原因は不明である。政房家知行地の代官所は、同郡深堀村の名主であった佐藤忠右衛門家の敷地内に、独立した敷地を持たない形で設置されていた[25]。ただし、幕末の一時期、代官所は同郡大寺村の名主・多田太兵衛家に移ったとされ、多田家には高力家の位牌が数柱祀られていた[26]。また、西高楯村の名主を務めた安達久右衛門家には、高力家や代官などの関係を記録した﹃諸色留書帳﹄が残っている[26]。
愛知県額田郡幸田町には、高力氏は南北朝時代、信濃国大河原の戦いで宗良親王に味方し、敗戦した熊谷氏の一族であるという伝承がのこっている[27]。ただし、真偽は定かではない。内容は以下の通りである。
延元元年/建武3年︵1336年︶夏、後醍醐天皇の皇子である宗良親王一行は井伊氏を頼るため遠江国へ向かい、大橋氏の青木城、吉良の宮迫、深溝の一の瀬、三ヶ日を経由し、井伊谷城へ到着した。このとき宗良親王を味方した武士の中に、豊根村に拠点を持ち、熊谷直実の末裔である熊谷小三郎直澄という地侍がいた。この勢力は次第に増強したが、延元3年/建武5年︵1338年︶に新田義貞が戦死、その後井伊谷城も落城した。宗良親王は信濃国の大河原に移ったが、敵軍のため﹁露とお消えになった﹂[27]。そこで宗良親王の皇子・尹良親王は浪合の地に移ったが、北朝方の攻撃にあい、親王方の諸士は各地に潜住した。熊谷小三郎直澄も額田郡大草城主の西郷氏を頼って隣村の高力村に住むこととなり、直澄は高力小三郎直澄と名乗った[27]。
また、このとき落ち延びた熊谷氏一族のうち、岩堀︵現・愛知県額田郡幸田町大字菱池字岩堀付近︶に定住したものは岩堀氏を称したとされている[28]。
青山家蔵古文書および旧・額田郡高須村(現・愛知県岡崎市福岡町付近)にある織田家に伝わる家譜には、それぞれ高力氏が分村として同村を開拓した逸話、高力氏の人物が織田信雄の息子とされる人物を養子としたとされる逸話が記されている[1][29]。
以下は、青山家蔵古文書に記されている、重長らが隣村であった土地を開拓して高力郷の分村とした逸話である[1]。
重長が一族で卜部に居住していた頃の1533年︵天文元年︶、大洪水で矢作川の支流が氾濫し、隣村であった山本四郎兵衛の領地が人家・田畑ともに流れ失せた。これにより、四郎兵衛の領地は砂や礫が連なる荒廃した河原となり放棄されていた。重長は近村の住民を雇い入れて荒れ地の開発に乗り出し、重長の二男・重正を筆頭支配人として、重正の8人の弟とともに開墾に出精した。重長はこの郷の始祖となり、本村である高力の﹁高﹂と荒れ洲の﹁洲﹂を組み合わせてこの郷を﹁高洲﹂と命名し、高力郷の分村とした[1]。
また、﹃三河国額田郡福岡村誌﹄などによれば[注釈7]、重長・重正らは高須村に移住したとされ、﹁高洲﹂の由来は﹁流失した土砂が堆積した洲﹂であるとされる[29]。
以下は、旧・高須村にある織田家の家譜などに記された、重長の曾孫とされる人物が織田信雄の息子とされる人物を養子とし、同地の織田家の発祥となったとする逸話である[29][注釈8]。
重正の孫であった直崇︵通称・熊谷次郎左衛門︶は香道に精通しており、織田信長の前でたびたび香を焚いた。また、織田信雄から深く懇望されたため、香道の真意を伝えた。1587年︵天正15年︶11月、直崇が清洲城に出仕したとき、信雄の側室であり伊勢国の社家の人物・久田某の娘である﹁園の方﹂が、妊娠5ヶ月であり暇が出ることとなっていた。直崇は日頃より信雄から恩情を受けていたため、信雄より園の方の取り計らいを命じられた。直崇は妻子を持っていなかったため、信雄と園の方との子供を自分の養子にすることを願い上げ、これについて信雄から許可があった。その際、信雄より、生まれた子供が男子であったら必ず申し出ることを指示され、直崇は帰国した[30]。
翌1588年︵天正16年︶4月5日、男子が誕生した。直崇は大変喜び、同年12月、この男子は信雄に謁見した。信雄は大変喜び、この子供を﹁信太郎﹂と命名した。信雄は信太郎について、この子が成長すれば必ず一郡の領主とするとして、正長の短刀、家系図、黄金2枚を与えた。直崇は喜んで帰国し、信太郎を養育した[30]。
1590年︵天正18年︶、織田家は滅亡した。直崇は憂いに耐えられず出家する志を強くし、自らの家を信太郎に譲り、園の方を信太郎の後見人とした。直崇は信太郎について、織田内府︵信雄︶の血筋であり織田氏の姓を捨てるのは忍びないと言い置き、自らは僧となった。直崇は織田氏の本国が越前国であることにちなみ、﹁越﹂の字に﹁崇﹂の字を付けて﹁越崇﹂と号した。越崇は同村・八郎右衛門の屋敷に庵を結んで隠居し、1625年︵寛永2年︶病死した。信太郎は以降高須村に居住し、﹁織田次郎左衛門信久﹂と名乗った[31]。
なお、高須村は江戸時代に600石を有し、1685年︵天和5年︶から松平右衛門太夫の領土、1688年︵元禄元年︶より徳川氏の領土となり、1690年︵元禄3年︶より幕領となったとされる[32]。
高力氏系図
凡例1) 太字は当主、実線は実子、点線(縦)は養子。2) 早世、婚姻関係、女子は省略。3) 系図の出典は『寛政重修諸家譜』「高力氏」[8](長成・直道以前)、『安城歴史研究』「高力氏について」中の「高力家略系譜」(直行以降)[33]、千葉県教育振興財団『研究紀要28』(忠直以降)[23]。4) 熊谷実長以前は熊谷氏#三河熊谷氏を参照。
(一)^ 熊谷正直とする書籍もある。
(二)^ ただし、﹃姓氏家系大辞典﹄第2巻︵太田亮、姓氏家系大辞典刊行会、1935年、2135頁︶には直鎮の上洛は元弘3年︵1333年︶とされる。
(三)^ 享禄3年︵1530年︶とする文献もある。
(四)^ 幸田町史編さん室﹁ふるさとの今昔 (3) 高力邑と高須郷﹂﹃広報こうた﹄昭和49年1月1日号は、重長が移住したとする。また、同文献は、重長が高力城に落ちついたとしている。
(五)^ 慶長9年︵1604年︶説もある。
(六)^ 慶応元年以前は全く陣屋が置かれなかったのかどうかは定かではない。
(七)^ このほか、﹃新編福岡町史﹄は織田家譜ならびに織田完之﹃織田家先霊ならびに恩人諸霊を祀る文﹄を出典としている。
(八)^ 出典中446、447頁の現代語訳および448頁の家譜の原文︵写真︶を元に要約を示した。
(九)^ ﹃寛政重修諸家譜﹄には、直道の男子は出生順に某︵早世︶、直忠、直延︵松平朝矩五男︶、某、某と表記されている。ここでは、直行以降は﹃安城歴史研究﹄の略系譜に基づいて表記した。
(一)^ abcdefgh幸田町史編さん室﹁ふるさとの今昔(3) 高力邑と高須郷﹂﹃広報こうた﹄昭和49年1月1日号、幸田町、1974年、6頁。
(二)^ abc新編岡崎市史編集委員会﹃新編岡崎市史20総集編﹄、新編岡崎市史編さん委員会、1993年、157、158頁。
(三)^ ab川合正治﹁高力家について﹂﹃安城歴史研究﹄第37号、安城市教育委員会、2012年、24頁。
(四)^ abcde新編岡崎市史編集委員会﹃新編岡崎市史20総集編﹄、新編岡崎市史編さん委員会、1993年、157頁。
(五)^ abcde島原市﹁ふるさと再発見 第3代島原藩主 高力忠房﹂﹃広報しまばら﹄平成29年10月号、島原市、2017年、17頁。
(六)^ abcdefgh川合正治﹁高力家について﹂﹃安城歴史研究﹄第37号、安城市教育委員会、2012年、58頁。
(七)^ abcd新編岡崎市史編集委員会﹃新編岡崎市史2中世﹄、新編岡崎市史編さん委員会、1989年、381、382頁。
(八)^ abc三上参次編 国立国会図書館デジタルコレクション﹃寛政重修諸家譜 第3集﹄、国民図書、1923年、725頁。
(九)^ ﹃姓氏家系大辞典﹄ 第2巻、太田亮著、上田萬年、三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1935年、1423、1424頁。
(十)^ ab“宇利城の概要”. 新城市. 2020年6月5日閲覧。
(11)^ 新編岡崎市史編集委員会﹃新編岡崎市史2中世﹄、新編岡崎市史編さん委員会、1989年、380頁。
(12)^ 新編岡崎市史編集委員会﹃新編岡崎市史2中世﹄、新編岡崎市史編さん委員会、1989年、379頁。
(13)^ 幸田町史編纂委員会﹃幸田町史﹄、幸田町、1974年、121頁。
(14)^ ﹃姓氏家系大辞典﹄ 第3巻、太田亮著、上田萬年、三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1936年、6237頁。
(15)^ ﹃姓氏家系大辞典﹄ 第1巻、太田亮著、上田萬年、三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、613、614頁。
(16)^ 川合正治﹁高力家について﹂﹃安城歴史研究﹄第37号、安城市教育委員会、2012年、26頁。
(17)^ abc三上参次編 国立国会図書館デジタルコレクション﹃寛政重修諸家譜 第3集﹄、国民図書、1923年、726頁。
(18)^ 幸田町﹁幸田の文化財と史跡めぐり (11) 高力清長の邸跡 高力城址﹂﹃広報こうた﹄昭和62年3月1日号、幸田町、1987年、17頁。
(19)^ 川合正治﹁高力家について﹂﹃安城歴史研究﹄第37号、安城市教育委員会、2012年、30頁。
(20)^ ﹁島原の歴史︵年表︶﹂﹃島原城薪能﹄、島原城薪能振興会、2018年、40頁。
(21)^ 大村市史編さん委員会 (2015), ﹃新編大村市史 第三巻近世編﹄, 大村市, p. 397, https://www.city.omura.nagasaki.jp/bunka/kyoiku/shishi/omurashishi/dai3kan/documents/321-480_dai3-3syou.pdf
(22)^ abcd川合正治﹁高力家について﹂﹃安城歴史研究﹄第37号、安城市教育委員会、2012年、59頁。
(23)^ abcd﹃研究紀要28﹄﹁房総における近世陣屋﹂, 千葉県教育振興財団, (2013), p. 11, http://www.echiba.org/pdf/kiyo/kiyo_divi/kd028/kiyo_028_p1.pdf
(24)^ 川合正治﹁高力家について﹂﹃安城歴史研究﹄第37号、安城市教育委員会、2012年、41頁。
(25)^ 川合正治﹁高力家について﹂﹃安城歴史研究﹄第37号、安城市教育委員会、2012年、45頁。
(26)^ ab川合正治﹁高力家について﹂﹃安城歴史研究﹄第37号、安城市教育委員会、2012年、46頁。
(27)^ abc幸田町﹁幸田の伝説と民話 (9) 高力熊谷氏﹂﹃広報こうた﹄昭和61年1月1日号、幸田町、1986年、14、15頁。
(28)^ “こうた豆知識”. 幸田町. 2020年6月5日閲覧。
(29)^ abc福岡学区郷土誌委員会﹃新編福岡町史﹄、福岡学区郷土誌委員会、1999年、446 - 448頁。
(30)^ ab福岡学区郷土誌委員会﹃新編福岡町史﹄、福岡学区郷土誌委員会、1999年、446、448頁。
(31)^ 福岡学区郷土誌委員会﹃新編福岡町史﹄、福岡学区郷土誌委員会、1999年、447、448頁。
(32)^ 福岡学区郷土誌委員会﹃新編福岡町史﹄、福岡学区郷土誌委員会、1999年、449頁。
(33)^ 川合正治﹁高力家について﹂﹃安城歴史研究﹄第37号、安城市教育委員会、2012年、25頁。