ジャンパオロ・ダラーラ
ジャンパオロ・ダラーラ︵伊:Giampaolo Dallara、英:Gian Paolo Dallara、1936年11月16日 - ︶は、イタリア出身の自動車技術者、実業家。自動車企業﹁ダラーラ・アウトモビリ﹂の創業者。
ジャンパオロ・ダラーラ Giampaolo Dallara | |
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イタリア・ラリーイベント「La Festa Mille Miglia 2016」パルマ・ステージにて | |
生誕 |
1936年11月16日(87歳) |
国籍 | イタリア |
別名 | Gian Paolo Dallara |
教育 | ミラノ工科大学 |
子供 | 女子2人[2] |
業績 | |
専門分野 | |
勤務先 |
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設計 | |
成果 | |
受賞歴 |
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略歴
編集スーパーカー開発
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パルマ県ヴァラーノ・デ・メレガーリ出身[1][3]。ミラノ工科大学で航空力学を専攻し、1959年に博士号を取得して母国の自動車メーカー﹃フェラーリ﹄に入社。モータースポーツの仕事に携わり[4]、カルロ・キティの下でエンジニアリング・アシスタントを担当した[5]。1年半後には﹃マセラティ﹄へ移籍し、カーレースのブランドから撤退するまで在社[2]。
1963年、新興メーカーであった﹃ランボルギーニ﹄にスカウトされ、チーフエンジニアの地位に就く。ここで同僚のパオロ・スタンツァーニやボブ・ウォレス[6]、マルチェロ・ガンディーニ︵ベルトーネ社︶らと共同で、初期の代表車種である﹁ミウラ﹂や﹁エスパーダ﹂などを開発した[7]。
さらに本人は、フェラーリやマセラティ時代に体験したフォーミュラカーの開発や、ミウラでのレース参戦を熱望。しかし社長のフェルッチオ・ランボルギーニにはレース参戦の意思はなく、このことが原因で1968年にランボルギーニを退社し、実現のために1969年から﹃デ・トマソ﹄に移籍する[8]。
ここでF2マシンやフランク・ウィリアムズ︵後のウィリアムズF1チーム代表︶率いる﹃フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ﹄のF1マシン設計を担当した。しかし開発した﹁デ・トマソ・505/38﹂は性能が不足しており、1970年のF1世界選手権で死亡事故が起きてしまう。デ・トマソはプロジェクトから手を引き、本人は大きな挫折を味わった。
モータースポーツ・コンストラクターとしての成功
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やがてデ・トマソを離れ、1972年に地元パルマ県にて起業し、自動車開発メーカー﹃ダラーラ・アウトモビリ﹄を設立した。初期は国内向けの小排気量スポーツカーを発表しながら、ランチア・ストラトス︵グループ4︶やランチア・ベータ・モンテカルロ︵グループ5︶など外部企業の開発コンサルタントを請け負う。
フォーミュラカーの分野においては、デ・トマソ時代に縁のあったフランク・ウィリアムズ・レーシングカーズの仕事を請け負い、F1マシンの改修に協力。後の同チーム冠名F1マシン﹁ウィリアムズ・FW﹂シリーズの誕生に貢献した。そして1978年よりF3シャーシの製造・販売市場に参入し、F3初のカーボンモノコックを開発[9]。ラルトやレイナードとのシェア争いを経て、1990年代末にはダラーラの寡占状態を実現する[10]。2000年代以降、フォーミュラレースで車体のワンメイク化が進行すると、GP2︵→FIA F2︶、GP3︵→FIA F3︶などの下位カテゴリーにおいて、独占供給するまでに会社を成長させた[11]。
F1にはチーム﹃スクーデリア・イタリア﹄と提携し、1988年よりコンストラクターとして参戦。その後は、米国のインディカー・シリーズや耐久レースの分野にも供給を拡大させ、2000年代にはル・マン耐久シリーズに出場するプロジェクトを指揮。2010年代はスーパーフォーミュラやフォーミュラEへの供給も開始。さらには念願だったロードカーの開発に着手し[12]、2017年に初の自社製市販車﹁ダラーラ・ストラダーレ﹂を発表している[13]。
社外の役員としては、1980年代からイタリア・モータースポーツ委員会に属し、1996年に副会長に就任。1998年には、国際自動車連盟 (FIA) のイタリア代表委員に選出されている。表彰に関しても数多く、2013年には母国の栄誉﹁イタリア共和国功労勲章﹂︵グランデ・ウッフィチャーレ︶を受勲した。
開発に関わった主な車種
編集- ロードカー (市販車)
- フォーミュラカー
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- クーパー・マセラティ
- デ・トマソ・505/38
- ウィリアムズ・FW
- ダラーラ・F3シリーズ
- ダラーラ・BMS188
- ダラーラ・BMS189
- ダラーラ・BMS190
- ダラーラ・BMS191
- ダラーラ・BMS192
- ホンダ・RA099
ほか多数
ギャラリー
編集-
ランボルギーニ時代 - V12エンジンを前にする本人(右)、フェルッチオ・ランボルギーニ(中) 、ジオット・ビッザリーニ(左) 1963年
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エンツォ・フェラーリ(左)らと談笑(本人・中) 1960年代末
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レーサー ジャッキー・イクス(中)と囲み取材(本人・右隣) 1960年代末
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地元のラリーイベントに登場したダラーラ・ストラダーレとのショット(本人・左) 2018年
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ダラーラ・ストラダーレを後ろに、関係者とのショット(本人・左) 2018年
脚注
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(一)^ ab“Giampaolo Dallaraプロフィール”. ダラーラ・アウトモビリS.p.A. 2020年6月1日閲覧。
(二)^ ab“Interview: Race Car Designer Gian Paolo Dallara”. Automobile Magazine (2014年6月19日). 2021年3月13日閲覧。
(三)^ ﹃Racing On 2006年8月号︵No.405︶特集 シャシーコンストラクター﹄、ニューズ出版、17頁。
(四)^ “あのジャンパオロ・ダラーラがSF最終戦鈴鹿に登場”. オートスポーツweb (2014年10月5日). 2019年6月17日閲覧。
(五)^ “ランボルギーニ・ミウラの生みの親が選んだ自分への誕生日プレゼントとは?”. Octane Japan 編集部 (2019年4月18日). 2019年9月21日閲覧。
(六)^ “観光名所ではないけれどしっかり見ておきたいラウンドアバウト”. Carview (2019年9月15日). 2019年10月3日閲覧。
(七)^ “︻伝説のランボルギーニ③︼ミウラは世界を驚かせる“奇想天外”なスーパーカーだった”. webモーターマガジン (2019年6月6日). 2019年6月16日閲覧。“フェルッチオの理想が完成﹁350 GT & 400 GT﹂(1964-1966)︻ランボルギーニ ヒストリー︼”. GENROQ Web (2019年9月22日). 2019年10月3日閲覧。“名作﹁ミウラ﹂誕生までの実話︵1965-1966︶︻ランボルギーニ ヒストリー︼”. GENROQ Web (2019年9月29日). 2019年10月3日閲覧。
(八)^ “Giampaolo Dallaraバイオグラフィー”. ランボルギーニS.p.A. 2020年6月1日閲覧。
(九)^ ﹃Racing On 2006年8月号︵No.405︶特集 シャシーコンストラクター﹄、ニューズ出版、24頁。
(十)^ “世界最大レースカーメーカー創始者の夢を実現した“道”という名のクルマ”. Response (2019年4月24日). 2019年10月3日閲覧。
(11)^ “ダラーラを知っているか? 知っておきたい歴史”. AUTOCAR JAPAN (2018年4月26日). 2019年6月16日閲覧。
(12)^ “Dallara Stradale 文化と情熱を共有する”. Forbes JAPAN (2019年6月18日). 2019年7月10日閲覧。
(13)^ “ダラーラ・ストラダーレ試乗 初のロードカー市販”. AUTOCAR JAPAN (2018年3月26日). 2019年6月16日閲覧。