トーマス・ウォートルス
イギリスの土木技術者
略歴
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アイルランドオファリー県バーの生まれ。香港の英国造幣局の建設に関わり、1864年頃、香港から鹿児島に渡り、叔父の知り合いだったグラバーの紹介で、薩摩国の鹿児島紡績所などの工事に携り、長崎に行き、グラバーのもとで働く。
1868年貨幣司に雇用され、大阪の造幣寮応接所︵現泉布観︶を建設する。大隈重信らの信任を得て上京し、1870年︵明治3年︶から大蔵省に雇用される。竹橋陣営や、銀座大火後の銀座煉瓦街の建設が有名。煉瓦工場︵ホフマン窯︶も自ら築き、日本人を指導した。日本の近代建築はウォートルスからコンドル、辰野金吾へと流れる。
工部省に移るが明治8年に解雇され、上海に赴いたのちニュージーランドで鉱山技術者として働く。鉱山技術者の弟とともにアメリカ合衆国・コロラドに渡る。そこでコロラド銀山を発見して成功を収め[2]、デンバーで没する。因みにジョン・アルバートとジョセフ・ヘンリー・アーネストという二人の弟も日本で働いており、三人でアメリカへ渡り鉱山開発に従事した。
評価
編集文献
編集- 三枝進「ウォートルスの経歴に関する英国側資料について」『銀座文化研究』6号-8号(1991-1994年)
- 藤森照信 「謎のお雇い建築家 『建築学の教科書』収蔵」 (2003年 彰国社)ISBN 4-395-00542-X C3052