praetoriani1
『即位を宣するクラウディウス帝』(1867年) ローレンス・アルマ=タデマ
左に大勢いるのがプラエトリアニ。

「プラエトリアニ」の先駆け

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歴史

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ローマのレリーフ、プラエトリアニ、西暦50年頃

創設

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アウグストゥスは帝政を創始すると、このような精鋭部隊は戦時だけでなく平時においても有効と考え、プラエトリアニを募るようになった。またアウグストゥスは、自分の身を守るためには何らかの組織が必要とは考えていたが、同時に共和政という体裁を保ったまま新たな元首政を作り上げるため、慎重に増強を重ねた。まず1部隊500人を9つ編成し、徐々に部隊の人員数を1000人にまで増員していった。そして9つの部隊のうち3つをローマ市に、そのうちの1つを皇宮に配備させた。そして紀元後2年騎士階級からプラエトリアニの最高責任者となるプラエフェクトゥス・プラエトリオを2人置くことを決定した。

ティベリウによる強化

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クラウディウス擁立と粛清

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フラウィウス朝

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親衛隊長アッティアヌス

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セウェルス朝〜軍人皇帝時代

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終焉

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ディオクレティアヌスはプラエトリアニ出身であったが、その権限を大幅に削減した。しかしプラエトリアニはそのままの状態で、帝国は4分割されてゆく。そして最後の活躍は、312年マクセンティウス帝を支持してコンスタンティヌス1世と戦ったミルウィウス橋の戦いである。プラエトリアニは戦闘の大半を担ったが敗北、勝者となったコンスタンティヌスはプラエトリアニを解散、各兵士は数名ごとにローマ軍に分散された。

脚注

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  1. ^ タキトゥス『年代記』1.24,2.16
  2. ^ タキトゥス『年代記』4.2
  3. ^ カッシウス・ディオ『ローマの歴史』58.9-14
  4. ^ スエトニウス『ローマ皇帝伝』カリグラ.56-59
  5. ^ ヨセフス『ユダヤ古代誌』6.19.2-3
  6. ^ ヨセフス『ユダヤ古代誌』6.19.4
  7. ^ スエトニウス『ローマ皇帝伝』クラウディウス.10
  8. ^ ケッピー, p. 159-160.
  9. ^ タキトゥス『年代記』11.1-4
  10. ^ タキトゥス『年代記』11.33-38
  11. ^ 南川, p. 37-38.
  12. ^ スエトニウス『ローマ皇帝伝』ティトゥス,6
  13. ^ 南川, p. 99.
  14. ^ 南川, p. 67.
  15. ^ 南川, p. 130.
  16. ^ 南川, p. 138,155.

参考文献

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2014ISBN 9784062922159 

  2006ISBN 9784562040261 

関連項目

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