一条能継
一条 能継︵いちじょう よしつぐ、生年未詳 - 承久3年︵1221年︶?︶は、鎌倉時代前期の公家。一条高能の子。母は藤原隆季の娘。一条家中御門流。左中将、従五位上。
兄能氏と共に鎌倉幕府と繋がりが深く、源実朝の建保6年︵1218年︶6月の左大将拝賀式、実朝が暗殺された建保7年︵1219年︶正月の右大臣拝賀式にも出席している。
承久3年︵1221年︶6月の後鳥羽上皇と鎌倉幕府の対立による承久の乱では、叔父の信能・尊長らは上皇方の首謀者となっている。慈本寺本﹃承久記﹄によれば、能継は上皇方として丹波国に流され、間もなく斬首されたとされる。﹃尊卑分脈﹄では兄能氏が承久3年に梟首されたとされ、能継との混同が見られる。幕府方の記録﹃吾妻鏡﹄には、叔父の信能・尊長の処刑や逃亡の記録はあるが、能氏・能継兄弟に関する処罰の記録は見られない。