丙寅教獄
1866年朝鮮で起こったキリスト教弾圧事件
丙寅教獄︵へいいんきょうごく、朝鮮語: 병인사옥︶とは、李氏朝鮮王朝が1866年3月に起こした朝鮮におけるキリスト教徒大量虐殺事件。キリスト教徒の弾圧事件として最大規模であり、1万人以上が犠牲になった。発端は南下するロシア︶に対抗する3国同盟︵朝鮮、フランス、イギリス︶を結んで朝鮮開国を主張するキリスト教徒朝鮮人など国内のキリスト教の影響力が高まっていたが、興宣大院君は鎖国強化するために起こした。朝鮮王朝第26代王高宗の時代における﹁丙寅迫害﹂と呼ばれる大規模なカトリック信者の迫害全体を指す言葉には、他にも天主教大弾圧、丙寅邪獄、丙寅教難がある。その中でも捕らえられた2000人以上のキリスト教徒が斬首され、また絶壁から落とされるという残酷に処刑された場所である切頭山が知られている[1][2]。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/38/Pierre_Henri_Dorie_Korea_1864.jpg/175px-Pierre_Henri_Dorie_Korea_1864.jpg)
概要
編集
元々興宣大院君は妻がキリスト教徒だったため、当初はキリスト教に友好的だったとみなされていた。ロシアの南下政策によってロシアが李氏朝鮮に自国との通商を要求すると、朝鮮国内のキリスト教徒たちは興宣大院君に三国同盟︵朝鮮、フランス、イギリス︶を申し入れた。しかし、朝仏英の三国同盟計画は失敗すると、興宣大院君はキリスト教徒を擁護しているという非難を受けたことで、非難を終息するために起こしたのが丙寅教獄である。
1866年は朝鮮王朝第26代王に高宗がなって3年の時代であり、パリ外国宣教会から派遣され、李氏朝鮮に潜入して布教に当たっていたシメオン=フランソワ・ベルヌー司教ほか9名のフランス宣教師、高宗の乳母︵朴マルタ︶を含んで、8,000名以上の信者を虐殺した[3]。この大虐殺を直接指揮し捕盗大将李景夏は武勲で名を上げた。
詳細は「丙寅洋擾」を参照
主な殉教者
編集- Bishop Siméon-François Berneux シメオン=フランソワ・ベルヌー (1866年3月8日)
- Bishop Antoine Daveluy (同上)
- Just de Bretenières ジュスト・ド・ブルトニエール (同上)
- Louis Beaulieu (同上)
- Pierre Henri Dorié ピエール=アンリ・ドリー (1866年3月30日)
- Pierre Aumaître (同上)
- Luc Martin Huin (同上)
殉教者の慰霊
編集その他の李氏朝鮮によるキリスト教弾圧
編集朝鮮王朝(1392年 - 1910年)は19世紀、キリスト教を禁じたが、宣教師は潜入、信者は絶えなかったので、何度か弾圧を行っている。
脚注
編集
(一)^ “切頭山殉教聖地 | 절두산 순교성지 : トリップポーズ”. TRIPPOSE. 2020年8月2日閲覧。 “。現在の﹁切頭山﹂は、1866年に起こったカトリック教徒の大量虐殺事件﹁丙寅迫害﹂で殺害された信者の殉教地であり、また信者の首を切って頭を漢江に投げ捨てたという話からこう呼ばれるようになりました。”
(二)^ “切頭山 / チョルトゥサン”. seoul. 2020年8月2日閲覧。
(三)^ ab︻설왕설래︼ 병인양요 世界日報 2008年9月9日
(四)^ 第2版, 日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,世界大百科事典. “洋擾とは”. コトバンク. 2022年8月30日閲覧。