今中は、八尾中の同窓会の会報において﹁︵八尾中学校︶在学中から、和歌はじめ文学などというものに、うつつをぬかし、他の学業をおろそかにしたために成績が落ち﹃特待生﹄の特権を取り消された﹂と述懐しているが、広島高師に進み、卒業後は女子教育に携わった。
寝屋川高女では短歌の指導に注力していたが、1937年︵昭和12年︶1月26日の宮中歌会始を陪聴の栄に浴したことを機に同高女の教頭を辞職し、戦時体制に協力する産業報国運動の一環として﹁和歌報国運動﹂に専念した[3]。
なお、今中の薫陶を受けた寝屋川高女では1931年に同校を会場として大阪府下の女子学生の短歌大会が開催され、秩父宮妃が台臨している。