会津木綿
歴史
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会津の綿花栽培は、天正年間に蒲生氏郷が執った産業振興策に由来するという。
寛永4年︵1627年︶には、加藤嘉明が以前の領国である伊予国松山から織師を招いて、会津に技術を広めた。伊予国はこの頃、瀬戸内交易の影響で、外国風の木綿の縞織物を特産品としており、これらの﹁伊予縞﹂︵いよじま︶と呼ばれる織物の技術が、現在の会津木綿の多彩な縞模様の素地となった。
寛永20年︵1643年︶、保科正之が綿花の栽培を奨励し、藩士の妻女の内職として木綿の織物に励むように勧告する。会津では農民の副作物として藍がよく栽培されており、農民の妻女は綿花の手紡ぎを冬の間の収入源としていた。
明治中頃、紡糸紡績業が発達する。綿糸を近隣の農家から購入するのではなく、国内の綿糸工場から大量に購入して力織機で大量に生産するようになる。
明治末期から大正にかけて、会津木綿の生産は最盛期を迎えた。
昭和以降、需要の急速な減少によって、生産は縮小。現在は、福島県会津若松市の山田木綿織元とはらっぱ、会津坂下町のIIE Lab.(イーラボ)の3工場のみが生産を担っている。
参考文献
編集- 木村孝監修『染め織りめぐり』JTBキャンブックス ISBN 4-533-04468-9