建久3年︵1192年︶に企画・出題される[1]。翌4年秋に披講・評定され、同年に加判が終了した。歌題は春15・夏10・秋15・冬10・恋50の百題。恋部は前半25題が恋の進行状態による設題、後半25題が﹁寄物恋﹂型の組題となっているなど、題詠の細分化と体系づけが考慮された画期的な試みとなっている。
﹃新古今和歌集﹄は本歌合の作品を極めて高く評価しており、34首が同集に入撰している。歌壇史上、六条藤家一派はその歌学と過去の栄光を本歌合に賭して、摂関家歌壇における御子左家一派の新指導権と対決する。そのため、特に顕昭︵六条藤家派︶と慈円・寂蓮・家隆︵御子左家派︶の論は白熱した。
- ^ 『拾遺愚草』謌合百首「建久四年 三年給題、今年雖憚身、依別儀猶被召此哥」