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四条隆貞
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿
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この項目では、
鎌倉時代
末期の
公卿
について説明しています。
四条隆英
の子については「
四条隆貞 (男爵)
」をご覧ください。
四
条
隆
貞
︵
し
じ
ょ
う
た
か
さ
だ
︶
は
、
鎌
倉
時
代
末
期
か
ら
南
北
朝
時
代
に
か
け
て
の
公
卿
。
大
納
言
・
四
条
隆
資
の
子
。
官
位
は
従
四
位
下
・
左
少
将
、
参
議
。
凡例
四条隆貞
時代
鎌倉時代
末期 -
南北朝時代
生誕
不明
死没
建武
元年(
1334年
)
12月
官位
従四位下
・
左少将
、
参議
[1]
主君
護良親王
氏族
四条家
父母
父:
四条隆資
兄弟
隆量
、
隆貞
、
隆俊
、
有資
、
西園寺実俊
正室、少納言内侍
子
養子:
安王丸
[2]
テンプレートを表示
目次
1
経歴
2
系譜
3
脚注
4
関連項目
経歴
編集
護
良
親
王
の
側
近
と
し
て
常
に
そ
の
活
動
に
随
従
し
、
令
旨
の
奉
者
に
度
々
な
っ
て
い
る
。
元
弘
3
年
/
正
慶
2
年
1
月
19
日
︵
1
3
3
3
年
︶
の
天
王
寺
の
戦
い
で
は
﹁
大
将
軍
﹂
と
し
て
楠
木
氏
の
軍
勢
な
ど
を
率
い
て
幕
府
軍
と
戦
っ
た
[
3
]
。
ま
た
少
な
く
と
も
元
弘
3
年
︵
1
3
3
3
年
︶
11
~
12
月
頃
和
泉
国
司
で
あ
っ
た
こ
と
が
確
認
で
き
る
[
2
]
。
建
武
の
新
政
が
始
ま
る
と
6
月
13
日
、
父
・
隆
資
と
共
に
兵
を
率
い
て
入
京
し
た
[
4
]
が
、
護
良
親
王
が
失
脚
し
て
鎌
倉
に
押
送
さ
れ
る
と
、
そ
の
余
党
を
取
り
除
こ
う
と
し
た
建
武
政
権
の
手
に
よ
り
建
武
元
年
︵
1
3
3
4
年
︶
12
月
に
殺
害
さ
れ
た
。
﹃
尊
卑
分
脈
﹄
は
こ
れ
を
﹁
打
死
﹂
と
表
現
す
る
。
系譜
編集
父:
四条隆資
(1292-1352)
母:不詳
妻:不詳
養子
男子:安王丸
脚注
編集
^
『
尊卑分脈
』
^
a
b
『
久米田寺
文書』
^
『
楠木合戦注文
』
^
『
太平記
』
関連項目
編集
公家大将