国司伍七
経歴
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山口県出身[1][2][3]。松岡百合松の五男として生れ、国司順正陸軍少将の養子となる[1]。山口高等中学校中退、成城学校を経て、1894年︵明治27年︶7月、陸軍士官学校︵5期︶を卒業[1][2][3]︵歩兵科首席[4]︶。同年9月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第2連隊付となる[1][3]。日清戦争に1895年︵明治28年︶4月から11月まで出征[1]。1901年︵明治34年︶11月、陸軍大学校︵15期︶を優等[5]で卒業[1][2][3]。
1902年︵明治35年︶11月、参謀本部出仕となり、参謀本部員を経て、1903年︵明治36年︶4月から翌年4月までドイツに駐在[1]。1904年︵明治37年︶6月、満州軍参謀︵兵站︶に発令され日露戦争に出征した[1][2]。1905年︵明治38年︶4月、歩兵少佐に昇進し第10師団参謀に就任[1]。
1906年︵明治39年︶2月から1908年︵明治41年︶12月までドイツに駐在[1]。帰国後、近衛歩兵第3連隊付となり、1909年︵明治42年︶11月、歩兵中佐に進級し歩兵第42連隊付となる[1]。1912年︵明治45年︶2月、陸軍戸山学校教官に就任し、陸軍歩兵学校教育部長を経て、1913年︵大正2年︶8月、歩兵大佐に進級[1][3]。
1915年︵大正4年︶8月、歩兵第23連隊長に就任し、1918年︵大正7年︶7月、陸軍少将に進級し参謀本部第4部長に着任[1][2][3]。1922年︵大正11年︶8月、陸軍中将に進み東京湾要塞司令官となった[1][2][3]。1923年︵大正12年︶8月、第7師団長に親補され、1926年︵大正15年︶3月に待命となり、同月、予備役に編入された[1][2][3]。
栄典
編集脚注
編集参考文献
編集関連項目
編集- 吉橋徳三郎 - 国司と論争の末に自殺した陸軍少将