圓鍔勝三
1905-2003, 彫刻家
来歴
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広島県御調郡河内村︵現・尾道市御調町︶出身。1905年︵明治38年︶11月30日、広島県御調郡河内町︵現御調町︶に生まれる[1]。1921年︵大正10年︶河内尋常高等小学校高等科を卒業し[2]、彫刻家を志して京都へ赴き、石割秀光の内弟子となって木彫を学ぶ。1926年、京都市立商工専修学校彫刻科・デッサン科に入学[1]。また同年、関西美術院に入り、木彫から近代的造形を学ぶ[1]。1928年︵昭和3年︶に上京し、日本美術学校彫刻科へ入学[1]。同校在学中の1930年、第11回帝展に﹁星陽﹂を出品して初入選[1]。翌年の第12回帝展に﹁みのり﹂を出品して再び入選する[1]。1932年、母が娘に紅を差す何気ない日常の一瞬を描写した﹁初夏﹂を第3回文展に出品、特選を受賞。
日本美術学校を卒業後、彫刻家の澤田政廣に師事[1]。1939年、第3回新文展に木彫﹁初夏﹂を出品して特選を受賞[1]。1941年、澤田政廣や三木宗策の主導する正統木彫家協会に会員として参加する[1]。1943年、北海道の炭鉱推進隊員として中村直人、古賀忠雄、木下繁らと激励彫刻を制作し、これ以降1945年まで九州・常盤の各炭鉱をまわって制作を行う[1]。
戦後、1946年秋の第2回日展で木彫﹁砂浜﹂によって特選を受賞[1]。1947年、多摩美術学校︵現多摩美術大学︶助教授となる[1]。同年、第3回日展に木彫﹁しろうさぎ﹂を招待出品し、特選受賞[1]。1950年、多摩美術短期大学教授に就任する[1]。同年、第6回日展に木彫﹁土器を持つ女﹂を出品して特選受賞[1]。1951年に設立された日本陶彫会に参加し、1975年まで出品を続ける[1]。1952年、日本彫塑会会員となる[1]。1953年、多摩美術大学教授となる[1]。1957年、木彫﹁幻想﹂を出品して川合玉堂賞を受賞[1]。
1960年、名前を勝三に改名[1]。1962年、日展評議員に就任[2]。1965年、第8回日展に出品した﹁旅情﹂が文部大臣賞[1]、日本芸術院賞︵1966年︶[3]。1968年、日本美術家連盟委員[2]、日本彫塑家協会委員長に就任[2]。1969年日展理事、翌年日本芸術院会員[1]。1971年、日展常務理事に就任[2]。同年、紺綬褒章受章[2]。1976年、勲三等瑞宝章受章[2]。
1980年、日本彫刻会理事長に就任[1]。同年、神奈川県文化賞受賞[1]。1981年、日展顧問に就任[1]。同年、御調町名誉町民第1号に登録される[2]。1982年、文化功労者[1]。1988年、文化勲章を受章[1]。1989年、広島県名誉県民に登録される[2][4]。同年、自伝﹁わが人生﹂を出版[2]。
1991年、川崎市名誉市民に登録される。1993年、伊勢神宮に﹁神馬﹂を奉納[1]。同年、圓鍔勝三彫刻美術館[5]、圓鍔記念公園が開館[1]。1997年自伝﹁続・わが人生﹂を出版[2]。
2003年10月31日、鬱血性心不全のため死去[4]。
創作初期には木彫を中心に制作したが、戦後はブロンズや陶磁、樹脂などの素材を用い、それらを混合した表現も行った[1]。戦後、抽象表現を取り入れる作家が多い中で、創作初期から写実を基に簡略化した人体像をモティーフとし、具象彫刻による新たな造形を模索した[1]。﹁幻想﹂﹁星羅﹂﹁夢 夢 夢﹂などロマンティックな主題を表象する作風を示したとされる[1]。晩年まで作家活動を行い、生涯創作意欲が枯れることはなかった。
略歴
編集受賞・栄典
編集主な彫刻作品の設置場所
編集参考文献
編集- 圓鍔勝三「大本山本門寺仁王像謹作をひかえて」『史誌』6号、大田区史編纂室、1976年。
脚注
編集関連項目
編集- 広島県出身の人物一覧
- 松田重次郎(マツダの事実上の創業者で、圓鍔の同郷の先輩。松田のブロンズ像は圓鍔が制作した)
外部リンク
編集- 圓鍔記念館(広島県尾道市御調町)
- 圓鍔勝三デジタルミュージアム