夕鶴
木下順二作の戯曲
登場人物
編集- 与ひょう(よひょう)
- つう
- 運ず(うんず)
- 惣ど(そうど)
- 子供たち
物語
編集
与ひょうは、ある日罠にかかって苦しんでいた一羽の鶴を助けた。
後日、与ひょうの家を﹁女房にしてくれ﹂と一人の女性つうが訪ねてくる。夫婦として暮らし始めたある日、つうは﹁織っている間は部屋を覗かないでほしい﹂と約束をして、素敵な織物を与ひょうに作って見せる。
つうが織った布は、﹁鶴の千羽織﹂と呼ばれ、知り合いの運ずを介し高値で売られ、与ひょうにもお金が入ってくる。その噂を聞きつけた惣どが運ずとともに与ひょうをけしかけ、つうに何枚も布を織らせる。
約束を破り惣どと運ず、さらには与ひょうは、織っている姿を見てしまう。そこにあったのは、自らの羽を抜いては生地に織り込んでいく、文字通り"我が身を削って"織物をしている与ひょうが助けた鶴の姿だった。正体を見られたつうは、与ひょうの元を去り、傷ついた姿で空に帰っていくのだった。
作品の素材
編集新潟県佐渡郡相川町北片辺(現・佐渡市)に伝わる民話「鶴女房」をもとに作られた[6][注釈 3]。
しかし、ストーリーは本来の民話や童話よりも複雑で、「お金」に取り憑かれていく人間と「お金」を理解しない鶴という対比によって、暗に経済至上主義への批判を行っている[要出典]。
制作・上演史
編集
木下が本作を執筆したのは1948年である。木下のメモによると、同年11月11日に脱稿した台本を山本安英の元に持ち込んで朗読を依頼した[7][注釈4]。この際木下は山本に﹁あなたを考えて書いたから、読んでみてやれるところまでやって見せて下さい﹂と話したという[7]。この段階ではタイトルがなく、木下と山本が考える中で﹁”夕”という幽︵かす︶かな響きをもったことばがふっと出てきて﹂︵山本︶題が決まったという[7]。
前記の通り、﹃婦人公論﹄1949年1月号に発表され、同年5月6日にNHK大阪放送局よりラジオドラマとして全国放送された︵演出‥岡倉士朗、出演‥山本安英・宇野重吉・清水将夫・加藤嘉︶[1][4]。同年10月の初演以来、与ひょうは桑山正一が演じた[2][注釈5]。以後、﹁ぶどうの会﹂で1964年まで公演が実施される︵後述の解散発表に伴い、1964年10月から12月までは﹁ぶどうの会解散残務処理委員会﹂の主催︶[10][11]。またこの間、1960年9月から11月にかけて山本は﹁第一次訪中日本新劇団﹂の副団長として中華人民共和国を訪問した際、北京・武漢・上海・広州で5回︵上海のみ2回︶の上演をおこなっている︵子役は中国の俳優を起用︶[12][13][14]。﹁ぶどうの会﹂︵解散残務処理委員会を含む︶としての本作の上演は372回だった[15]。
山本は1964年9月に﹁ぶどうの会﹂の解散を発表し、翌1965年11月に﹁山本安英の会﹂を発足させた[10][15][16]。﹁山本安英の会﹂として﹃夕鶴﹄の上演を再開したのは1966年9月だった[10]。
1967年は公演がなく、1968年の公演から与ひょう役が宇野重吉となる[17]。桑山正一は﹁450回以上﹂与ひょう役を務めた[18]。1970年は再び上演がなかった[5][17]。ここまでの上演では初演から担当した岡倉士朗の演出を、1959年の岡倉の没後も踏襲してきたが、このタイミングで初めて見直しが入り、作者の木下が1971年の公演から演出も担当することになった[19]。与ひょう役も2世茂山千之丞に交代した[19][20]。茂山はそのまま﹁山本安英の会﹂での公演終了まで与ひょうを演じ続け、500回以上出演した[18]。
1984年7月24日に福島市公会堂の公演で通算1000回を達成した[21][22]。1986年4月に﹁一千回達成記念公演﹂をおこない[23]、﹁山本安英の会﹂としての最後の上演となった。この間、木下順二は本作の上演を、プロの他の劇団には許可しなかった︵アマチュアに対してはその限りではなかった︶[24]。
山本死去から4年後の1997年には、坂東玉三郎がつう、渡辺徹が与ひょうを[要出典]演じる形で公演が実施された[25]。
記念碑
編集派生作品
編集
●夕鶴 (オペラ) - 舞台版の音楽を担当した團伊玖磨によるオペラ化作品。一言一句戯曲を変更してはならないという木下からの承諾条件の下に作曲された。
また、1953年には能楽の様式で本作を演じる試みもなされている︵つうは片山博太郎、与ひょうはのちに舞台でも演じる2世茂山千之丞だった︶[27]。
脚注
編集注釈
編集
(一)^ この場所で初演したのは、小山内薫の未亡人が天理教徒であり、山本に天理での上演を依頼したためとされる[3]。
(二)^ 上演した施設名については﹁天理教本部講堂[2]﹂﹁天理教館[4]﹂と複数の表記がある。
(三)^ 柳田國男﹃全国昔話記録﹄の第一編﹃佐渡昔話集﹄︵1932年︵昭和7年︶︶中の﹁鶴女房﹂︵採話者‥鈴木棠三、話者‥道下ヒメ︶である。相川町史編纂委員会︵編︶﹃佐渡相川郷土史事典﹄︵相川町、2002年、[要ページ番号]︶に民話及び本作の概要記述がある。
(四)^ それ以前から木下は書き上げた台本を山本のところに持参して朗読を頼んでいた[8]。
(五)^ 山本安英によると、初演直前に桑山が発熱したため、別の演目で同行していた滝沢修が代演を申し出たが、桑山は奮起して出演したという[9]。
出典
編集
(一)^ ab宮岸泰治 2006, p. 97.
(二)^ abc團伊玖磨﹁4.夕鶴とフリュート﹂﹃季刊ムラマツ﹄︵エッセイ﹁もがりごえ﹂。1983年から1993年まで連載されたものの1回︶、村松楽器販売
(三)^ 尾崎宏次﹃八人の演劇人﹄早川書房、1984年、p.152
(四)^ ab菅井幸雄年譜 1994, p. 166.
(五)^ ab山本安英 1994, p. 122.
(六)^ ab宮岸泰治 2006, p. 142.
(七)^ abc山本安英 1992, p. 46.
(八)^ 山本安英 1992, pp. 127–128.
(九)^ 山本安英 1992, p. 68.
(十)^ abc菅井幸雄年譜 1994, pp. 171–172.
(11)^ 宮岸泰治 2006, pp. 12–14.
(12)^ 山本安英 1994, p. 101.
(13)^ 菅井幸雄年譜 1994, p. 170.
(14)^ 宮岸泰治 2006, p. 107.
(15)^ ab宮岸泰治 2006, pp. 7–11.
(16)^ 山本安英 1994, pp. 107–110.
(17)^ ab菅井幸雄年譜 1994, p. 173.
(18)^ ab山本安英 1994, pp. 125–126.
(19)^ ab宮岸泰治 2006, pp. 48–50.
(20)^ 菅井幸雄年譜 1994, p. 174.
(21)^ 宮岸泰治 2006, pp. 137–138.
(22)^ 菅井幸雄年譜 1994, p. 178.
(23)^ 菅井幸雄年譜 1994, p. 179.
(24)^ 宮岸泰治 2006, p. 217.
(25)^ “劇作家の木下順二さん死去 ﹁夕鶴﹂﹁子午線の祀り﹂”. 朝日新聞. (2006年11月30日) 2023年9月9日閲覧。
(26)^ ab宮岸泰治 2006, p. 151-152.
(27)^ 山本安英 1992, p. 74.
参考文献
編集
●山本安英﹃女優という仕事﹄岩波書店︿岩波新書﹀、1992年12月21日。
●山本安英﹃歩いてきた道﹄中央公論社︿中公文庫﹀、1994年11月3日。
●菅井幸雄﹁山本安英年譜﹂﹃歩いてきた道﹄中央公論社︿中公文庫﹀、1994年11月3日、147-182頁。
●宮岸泰治﹃女優 山本安英﹄影書房、2006年10月7日。
関連文献
編集- 綜合版夕鶴編集委員会(編)『夕鶴 綜合版 舞台・鑑賞・資料』未來社、1953年
- 「夕鶴の世界」編集委員会(編)『夕鶴の世界 第二次綜合版』未來社、1984年
- 木下順二(著)山本安英の会(編)薗部澄(撮影)『夕鶴 写真で読む』童牛社、1993年