大久保公忠
高松藩の大老
大久保 公忠(おおくぼ きみただ)は、高松藩の大老(家老)。大久保主計家初代。
大久保 公忠 | |
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時代 | 江戸時代 |
生誕 | 寛永6年(1629年) |
死没 | 宝永3年(1706年) |
別名 | 一学(通称)→主計(通称)→不徹(号) |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 松平頼重→頼常 |
藩 | 讃岐国高松藩大老 |
氏族 | 大久保氏 |
父母 | 父:大久保公吉(実父:徳川頼房?) |
子 | 公卓、守羨 |
生涯
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寛永6年︵1629年︶、水戸藩家臣200石大久保公吉の次男として生まれる。実は、藩主徳川頼房の庶子で、頼房の侍女であった母が、身篭ったまま大久保公吉に嫁ぎ生まれた、とする説がある︵﹁英公外記﹂︶。寛永18年︵1641年︶、下館藩主であった松平頼重に小姓として10両5人扶持で仕える。
寛永19年︵1642年︶、頼重が讃岐高松に転封されると、父公吉と共に同行し、20両18人扶持を受ける。翌寛永20年︵1643年︶、知行300石となる。正保元年︵1644年︶、1000石加増されて1300石となり、老中に任ぜられる。正保2年︵1645年︶、加増されて2000石となり、17歳で大老に任ぜられる。大老は、家老の上に位置する藩内の最高位である。藩政当初は、肥田、彦坂、大久保の3家から大老が出ていたが、後に大久保家が独占することとなる。明暦2年︵1655年︶、加増されて禄高3000石となる。延宝元年︵1673年︶、藩主頼常の家督相続御礼言上の際に、江戸城で将軍徳川家綱に拝謁する。
延宝6年︵1678年︶、隠居して家督を嫡男の公卓に譲る。隠居領として1000石を与えられ、不徹と号した。公卓は藩主頼常の養女︵頼重の娘︶と結婚し、大老となる。次男守羨も500石を授かり家老となった。元禄10年︵1697年︶、公卓が継嗣無きまま先立って没し、その跡を守羨が相続する。守羨の跡は子の公敦が継ぎ、藩主頼豊の娘と結婚、大老となる。公敦の跡を継いだ新蔵︵公明︶の夭折により公忠の血統は断絶し、その跡は藩主頼恭の四男頼起、同七男頼裕が家名を相続した。
参考文献
編集- 『増補高松藩記』