山内積良
日本の実業家(1883 −1949)
山内 積良︵やまうち せきりょう、本名同じ、旧姓:金田、1883年︿明治16年﹀12月10日 - 1949年︿昭和24年﹀2月2日︶は、日本の実業家、山内房治郎商店2代店主。元任天堂取締役社長の山内溥は孫にあたる。
やまうち せきりょう 山内 積良 | |
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生誕 |
金田 積良 1883年12月10日 日本 |
死没 |
1949年2月2日(65歳没) 日本 |
死因 | 脳卒中 |
国籍 | 日本 |
職業 | 実業家(山内房治郎商店2代店主) |
肩書き | 山内房治郎商店2代店主 |
任期 | 1929年 - 1949年2月2日 |
前任者 | 山内房治郎 |
後任者 | 山内溥 |
子供 | 山内鹿之丞(婿養子) |
親戚 | 山内溥(孫) |
来歴
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京都府京都市に﹁任天堂骨牌﹂︵山内房治郎商店︶を創業し花札の製造販売を始めた山内房治郎は男児に恵まれず、1907年に金田弥兵衛の二男積良を長女の婿養子として迎え入れた[1]。
積良は1929年に山内房治郎商店2代店主に就任。房治郎から家督を相続し、花札製造業をいっそう発展させた。房治郎が並行していた建材業︵石灰・セメント︶は積良自身も行っていたが、次女の婿に灰孝本店を継承させ、分家独立させた[2]。
1933年には﹁合名会社山内任天堂﹂を設立。手狭になった本社を移転し、同時に生産機構の合理化、経営効率の改善をおこなった。
1947年には、販売子会社﹁株式会社丸福﹂を設立、同時にかるた・トランプの自主流通を始める。株式会社丸福は﹁株式会社丸福かるた販売﹂﹁任天堂かるた株式会社﹂﹁任天堂骨牌株式会社﹂を経て1963年に任天堂株式会社となっている。任天堂製花札のパッケージに丸福の印が使用されている[3]。
積良も房治郎同様、家督を相続すべき男児に恵まれず︵旧民法では家督相続者は﹁長男﹂でなければいけなかった︶、長女の婿養子に工芸家出身の稲葉鹿之丞を迎え入れ、二人の間に念願の長男・博︵山内溥︶が生まれる。しかし、鹿之丞が近所の女性と駆け落ち︵出奔︶してしまい、幼い孫の博が残された[4]。
1949年、病でこの世を去る。66歳没。死の直前、家督をわずか22歳で継ぐことになった孫の博の﹁任天堂で働く山内家の者は自分以外に必要ない﹂と言う条件を呑み、会社にいた山内家の従兄弟達を会社から退けた[5]。
任天堂旧本社社屋
編集脚注
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(一)^ “灰孝本店と任天堂の基礎を築いた山内房治郎︵山内一正さん︶”. 明治150年京都のキセキ. 京都市 (2017年12月13日). 2018年1月30日閲覧。
(二)^ “沿革”. 灰孝本店 (2012年). 2018年1月30日閲覧。
(三)^ 山崎 2015, p. 123.
(四)^ 山崎 2015, p. 124.
(五)^ 山崎 2015, p. 125.
(六)^ ab﹃︵仮称︶かぶやまProjectのお知らせ﹄︵PDF︶︵プレスリリース︶株式会社Plan・Do・See、2020年1月6日。2020年1月10日閲覧。
(七)^ ﹃︻本日より予約受付開始︼任天堂旧本社社屋が2022年4月にホテル﹁丸福樓︵まるふくろう︶﹂として生まれ変わります﹄︵プレスリリース︶株式会社Plan・Do・See、2022年1月20日。2022年4月6日閲覧。
参考文献
編集- 山崎功『任天堂コンプリートガイド』 玩具編、主婦の友インフォス情報社、2015年1月。ISBN 978-4-07-294757-9。
外部リンク
編集ビジネス | ||
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先代 山内房治郎 |
任天堂社長 第2代:1929年 - 1949年 |
次代 山内溥 |