岡田八十次
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岡田八十次家
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歴代当主[1][2]
●岡田藤左衛門- 岡田家高祖とされ、安土城下に生まれる。
●岡田弥三右衛門 (初代)玄悦‥︵永禄11年︵1568年︶-承応3年︵1654年︶︶慶長年間︵1596年-1615年︶八戸に進出し、後蝦夷地松前に出店。
●岡田弥三右衛門 (3代)秀慶‥︵生年不詳-元禄6年︵1693年︶︶3代秀慶の頃から享保年間︵1736年︶に﹃場所請負人﹄となったとされる。
●岡田弥三右衛門 (4代)玄正‥︵生年不詳-宝永7年︵1710年︶︶3代秀慶嫡子。
●岡田弥三右衛門 (5代)秀悦︵正広︶‥︵生年不詳-明和2年︵1765年︶︶4代玄正次男、通称清八。弟玄慶をもって小八郎家を立てる。
●岡田弥三右衛門 (6代)礁意︵正利又は広孝︶‥︵生年不詳-天明元年︵1781年︶︶5代次男、幼名弥二郎。
●岡田八十次 (7代)秀遠‥︵生年不詳-安永9年︵1780年︶︶6代広孝長男、幼名治郎。10代までは弥三治とも記される。
●岡田八十次 (8代)秀山︵常広︶‥︵生年不詳-天保12年︵1841年︶︶6代広孝次男、通称清八。
●岡田八十次 (9代)誠定︵広房︶‥︵生年不詳-文化12年︵1815年︶︶8代常広嫡子、幼名清次。
●岡田八十次 (10代)松住‥︵生年不詳-文政4年︵1821年︶︶今須三和の三男、8代娘婿、幼名弥三郎。23箇所の場所請負人となる、岡田家最盛期。
●岡田八十次 (11代)広猷︵正期︶‥︵生年不詳-明治40年︵1907年︶︶10代の娘婿、愛知郡柳川村大橋仁右衛門次男。慶應元年︵1865年︶小樽内場所の請負を失う。
●岡田八十次 (12代)眞哲‥︵生年不詳-大正2年︵1913年︶︶11代正期の娘婿、蒲生郡森尻村大梁氏。幼名弥一郎。
●岡田八十次 (13代)‥︵生年不詳-昭和15年︵1940年︶︶12代長男。明治16年︵1883年︶家督を継ぐが、明治34年︵1901年︶岡田家は事実上倒産。
岡田小八郎家
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歴代当主[3]
●岡田小八郎 (初代)玄慶︵治與︶‥︵元禄11年︵1698年︶頃-宝暦13年9月︵1763年10月︶︶5代岡田弥三右衛門の弟。
●岡田小八郎 (2代)恵雲‥︵享保4年︵1719年︶頃-寛政元年︵1789年︶︶栗太郡下物村︵現草津市下物町︶の郷士久松恵雲の子閑斉を娘そよ入婿。
●岡田小八郎 (3代)政渉‥︵宝暦11年︵1761年︶頃-享和元年2月︵1801年3月︶︶質素倹約に務め小八郎家中興の祖と言われる。
●岡田小八郎 (4代)政直‥︵天明6年︵1786年︶頃-文政10年10月︵1827年11月︶︶八幡朽木陣屋より勝手御用達となる。
●岡田小八郎 (5代)政徳‥︵天保12年︵1841年︶頃-明治21年︵1888年︶︶幼名與吉・通称元太郎。岡田家最盛期に家督を継ぐ。
●岡田小八郎 (6代)政祺‥︵嘉永元年︵1848年︶頃-明治34年︵1901年︶12月︶明治維新に伴う変化に対し奮闘。