119912034159528[1]
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川崎城
栃木県
主郭部跡(川崎城跡公園)
主郭部跡(川崎城跡公園)
別名 塩谷城、塩谷故城、蝸牛城
城郭構造 山城
天守構造 無し
築城主 塩谷朝業
築城年 正治建仁年間(1199年1203年
主な城主 塩谷氏
廃城年 文禄4年(1595年
遺構 曲輪
指定文化財 矢板市指定史跡
位置 北緯36度47分15秒 東経139度55分10秒 / 北緯36.78750度 東経139.91944度 / 36.78750; 139.91944
地図
川崎城の位置(栃木県内)
川崎城

川崎城

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一ノ堀跡

歴代城主

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  城主 生没年 備考
初代 塩谷朝業 承安4年(1174年)正月24日生~宝治2年(1248年)10月7日没
2代 塩谷親朝 建久5年(1194年)5月18日生~建長2年(1250年)10月14日没
3代 塩谷泰朝 建保2年(1214年)7月9日生~弘安元年(1278年)12月7日没
4代 塩谷盛朝 嘉禎3年(1237年)2月17日生~徳治2年(1307年)12月9日没
5代 塩谷朝定 正嘉元年(1257年)11月20日生~元徳2年(1330年)5月13日没
6代 塩谷朝世 弘安2年(1279年)3月20日生~興国6年(1345年)10月17日没
7代 塩谷家綱 文保元年(1317年)10月20日生~元中3年(1386年)6月9日没
8代 塩谷朝綱 元応2年(1320年)10月17日生~元中8年(1391年)12月26日没
9代 塩谷盛綱 嘉暦2年(1327年)10月21日生~応永7年(1400年)5月28日没
10代 塩谷泰綱 正平4年(1349年)正月18日生~応永28年(1421年)10月1日没
11代 塩谷光綱 建徳2年(1371年)9月25日生~文安5年(1448年)3月28日没
12代 塩谷秋綱 明徳元年(1390年)10月27日生~享徳2年(1453年)4月11日没
13代 塩谷教綱 応永13年(1406年)正月7日生~長禄2年(1458年)5月8日没
14代 塩谷隆綱 永享11年(1439年)9月15日生~延徳元年(1489年)12月28日没
15代 塩谷孝綱 文明2年(1470年)5月5日生~天文15年(1546年)10月19日没
16代 塩谷義孝 長享2年(1488年)正月5日生~永禄7年(1564年)10月7日没
17代 塩谷孝信 ?~天正14年(1586年)2月2日没 城主の期間は義孝没後から永禄9年(1566年
又は10年(1567年)まで
18代 塩谷義通 天文16年(1547年)月日不詳生~慶長3年(1598年)11月1日没 天正2年(1574年)11月まで
19代 塩谷義綱 永禄2年(1559年)正月20日生~寛永8年(1631年)12月9日没 文禄4年(1595年)2月8日まで

藤姓塩谷氏時代

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11991203

3144683813

重興塩谷氏時代

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略年表
年代 出来事
永禄2年(1559年 10月。結城晴朝、川崎城を包囲し5~6日攻め立てるも、落城せずに撤退。
永禄7年(1564年 10月7日夜。塩谷義孝の弟孝信が手勢16騎にて川崎城に侵入し義孝を殺害。川崎城を占拠する。
永禄9年(1566年 義孝の嫡子義綱が、宇都宮、佐竹、那須の援軍を得て川崎城を包囲。孝信は川崎城を脱出し落城する。
天正5年(1577年 3月15日。那須勢木幡原(川崎城南東)まで押し寄せ戦う。(那須塩谷合戦)
8月3日。那須勢富田原(川崎城北東)まで押し寄せ戦う。(富田原合戦)
天正6年(1578年 5月13日。那須よりの忍びを1名生け捕る。
9月7日。義綱、木幡神社(川崎城東)に参詣のところ那須の忍びが襲い掛かり2名を討ち取る。
天正13年(1585年 正月9日。那須資晴が川崎城に攻め寄せ城下を焼き払う。同月14日退却。
3月25日。薄葉ヶ原の戦い
文禄4年(1595年 2月8日。義綱、豊臣秀吉より改易を言い渡され、川崎城は廃城となる。

7156410791566

4159528



川崎城の規模について

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1km西200m[2]

500m1.5km500m

1km





廃城の時期について

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18(1590)17(1589)629

4(1595)28

脚注

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  1. ^ 「市指定文化財(史跡・天然記念物)」矢板市公式HP
  2. ^ 矢板の伝説 後編

参考資料

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  • 矢板市史
  • ふるさと矢板のあゆみ(以上矢板市刊行物)

関連項目

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外部リンク

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