川崎弘子
日本の女優
川崎 弘子(かわさき ひろこ、1912年〈明治45年〉4月5日 - 1976年〈昭和51年〉6月3日)は日本の女優。本名は
かわさき ひろこ 川崎 弘子 | |
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1951年 新東宝配給 『わかれ雲』スタジオスチル | |
本名 | 石渡 シヅ |
生年月日 | 1912年4月5日 |
没年月日 | 1976年6月3日(64歳没) |
出生地 | 日本 神奈川県川崎市 |
職業 | 女優 |
ジャンル | 映画 |
活動期間 | 1929年 - 1947年、1951年 - 1958年 |
配偶者 | 福田蘭童 |
著名な家族 | 木村健児(遠戚) |
主な作品 | |
『朗かに歩め』、『天国に結ぶ恋』、『沈丁花』、『地上の星座』、『人妻椿』、『金環蝕』、『金色夜叉』、『新女性問答』など |
来歴
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現在の川崎市川崎区の川崎大師のすぐ前の家に生まれる。実家は和菓子屋だったが、父親が他の事業に手を出して失敗、病死する[1]。父親を早くに失ったため、大師高等小学校卒業後に料理屋やガラス工場で働き、その赤貧の時代に[2]、俳優の木村健児にスカウトされて、1929年︵昭和4年︶2月、松竹蒲田に入社[注釈1]。芸名の川崎弘子は川崎大師と弘法大師にちなんで付けられた。[注釈2]佐々木恒次郎監督の﹃女性の力﹄でデビューする[2]。
主にメロドラマで活躍し、翌年1月には早くも準幹部になる。哀愁のある美人スターとしてトップスターとなり、1932年︵昭和7年︶1月には幹部となる。同年大磯の坂田山心中事件を扱った五所平之助監督の﹃天国に結ぶ恋﹄の主役を演じて大ヒットし、さらに同年五所監督の﹃不如帰﹄では林長二郎と共演[2]。
1935年︵昭和10年︶、離婚歴があり、麻雀賭博や結婚詐欺の疑いで何度も警察の厄介になっている福田蘭童と結婚したため人気は急速に低下した[注釈3][注釈4]。しかし1936年︵昭和11年︶に佐分利信を相手に主演した﹃人妻椿﹄は空前の大ヒットとなった。1939年︵昭和14年︶1月に大幹部となる。
1942年︵昭和17年︶より病気で休みがちになり、役も小さくなり1947年︵昭和22年︶に引退。1951年︵昭和26年︶にカムバックしたが1958年︵昭和33年︶に完全引退。
1970年︵昭和45年︶から肝臓を冒され、1976年︵昭和51年︶、肝硬変で死去。墓所は川崎市平間寺。
主な出演作品
編集脚注
編集注釈
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(一)^ 母と妹を養う必要があった。﹃サンデー毎日﹄大阪毎日新聞社 1935年9月29日號、p.14
(二)^ 伊東孝 ﹃東京再発見―土木遺産は語る﹄︵岩波新書、1993年︶などによると、名付け親は金森誠之とされている。
(三)^ 1933年︵昭和8年︶3月末、川崎主演のサウンド版﹃忘られぬ花﹄に福田が尺八演奏を入れたのを機に両者は知り合い、同年4月18日銀座パレスでの川崎病気全快祝いから親しく言葉を交わすようになり、8月末川崎とその妹が鎌倉に遊びに来ると福田が箱根まで案内し、さらに熱海へと足を延ばし、初島への船中で福田が求婚。9月1日、川崎の自宅へ母親を訪問し、婚約指輪を贈る。互いの母親の承諾のもとに同年11月頃婚約成立。当時22歳であった川崎が26歳になるのを待ち結婚することとなっていた。﹃サンデー毎日﹄大阪毎日新聞社 1934年4月8日號、p.29、﹃話﹄文藝春秋社 1935年7月號、pp.7-8
(四)^ 城戸四郎、菊池寛両夫妻が媒酌人を引き受け神宮奉齋会で挙式。﹁時事新報写真ニュース 大團圓﹂1935年11月7日号、猪俣勝人、田山力哉共著﹃日本映画俳優全史 女優編﹄社会思想社 1977年、p.50
出典
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 日本映画データベース 川崎 弘子
- 川崎弘子 松竹蒲田の哀愁女優 - 『時代を拓いた女たち』神奈川新聞社、2005年