平部嶠南
日本の政治家
生涯
編集
小田源五右衛門の娘と和田重寛︵石高65石︶の子として誕生し、天保4年︵1833年︶に平部俊寧の中継ぎ養子となる。妻のあさは長倉喜太郎の妹で長倉訒、小倉処平、長倉雄平兄弟の叔母にあたる。
少年期は安井滄州・安井息軒父子に儒学を学ぶ。その後江戸に留学し古賀侗庵に師事する。帰国後の天保5年︵1834年︶、飫肥藩の藩校である振徳堂の句読師となる。天保6年︵1835年︶には同校教授に出世。
弘化元年︵1844年︶には江戸留守居副役となる。その後、相談中や川除奉行、山林奉行、大坂留守居となる。安政元年︵1854年︶に隠居するも、文久3年︵1863年︶には再び召しだされて伊東祐帰の授読や用人、番頭、中老を経て慶応3年︵1867年︶に家老、明治2年︵1869年︶に飫肥藩大参事となる。
廃藩置県後は明治政府に出仕し、明治8年︵1875年︶には宮崎県地誌編集係に任命される。県内各地を巡り資料の収集・整理に努めた。
明治10年︵1877年︶の西南戦争では孫の平部俊彦や義理の甥である長倉訒、小倉処平が党薩諸隊の飫肥隊に参加しており、平部俊彦は熊本県で戦死、小倉処平は可愛岳近くの高畑山で屠腹自害している。
明治17年︵1884年︶に地誌が完成し、翌18年に編集功労手当を受ける。この地誌が﹃日向地誌﹄である。
明治23年︵1890年︶、死去︵享年76︶。平部が19歳から66歳までの47年間にわたる日誌が﹃六鄰荘日誌﹄と呼ばれ現存している。
著作
編集参考文献
編集- 末永和孝『宿志の人平部嶠南』 (鉱脈社、2006年) ISBN 4860611586
- 大石慎三郎他監修『江戸時代 人づくり風土記45 ふるさとの人と知恵 宮崎』(農山漁村文化協会) ISBN 4540961535
- 「三百藩家臣人名事典 7」(新人物往来社)
- 「飫肥城歴史資料館紀要・読み物編第2集 飫肥西郷と呼ばれた男 小倉処平」(平成29年(2017年)、飫肥城下保存会)