31846-101877818

 

凡例

小倉 処平
小倉処平
時代 江戸時代後期-明治時代初期
生誕 弘化3年(1846年
死没 明治10年(1877年8月18日
別名 飫肥西郷。:良儔
墓所 飫肥西山寺→旧報恩寺跡
幕府 江戸幕府
主君 伊東祐相明治天皇
飫肥藩
氏族 長倉氏→小野氏→小倉氏
父母 長倉喜太郎、川崎軍蔵の娘
小野九十九
兄弟 長倉訒長倉雄平
為子(小野九十九の娘)
特記
事項
貢進生制度を建議した人物の一人。
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生涯

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大学南校・大学権大丞時代

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明治3年(1870年)に小村寿太郎を伴って東京府へ上京し、寿太郎を大学南校に入学させ、処平自身も明治3年5月8日(1870年6月6日)に大学別当の松平慶永より大学南校の少舎長に任命される。大学南校の校風改革の一環として、旧米沢藩士の平田東助と共に貢進生制度を建議し、7月には大阪洋学校に校風改革のために派遣され、のちに大学権大丞となる。

欧米留学と下野

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佐賀の乱と大蔵省七等出仕

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明治7年(1874年)に起きた佐賀の乱で敗北した佐賀征韓党党首の江藤新平や香月経五郎の高知県への逃走を手助けしたために禁錮100日を命じられ、服役後に東京へ上って大蔵省七等出仕となる。

ちなみに明治9年(1876年)に都城県と美々津県を合併して成立した宮崎県鹿児島県に統合される。

西南戦争

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和田越の戦いと自害

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死後

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明治10年(1877年)9月20日郵便報知新聞において『小倉処平伝』が掲載される。はじめ飫肥の西山寺に埋葬され、のちにかつての飫肥藩主家伊東家の菩提寺で廃仏毀釈で廃寺となった旧報恩寺跡の東南の丘に改葬される。

人物

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西西西



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著作

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著作に「英国租税年報」、「英国地方條例」、「支那水路誌」などがあったとする。

登場作品

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テレビドラマ

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脚注

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  1. ^ 内容が天保年間の『飫肥藩分限帳』に「同六拾五石 長倉喜太郎」とある
  2. ^ 飫肥藩の家格参照。

参考文献

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 31867

 西 19114NDLJP:773389 

1912

491974


2 西 292017