新宮凉庭
1787-1854, 江戸時代の儒家、蘭方医。
(新宮涼庭から転送)
新宮 凉庭︵しんぐう りょうてい、天明7年3月13日︵1787年4月30日︶ - 嘉永7年1月9日︵1854年2月6日︶︶は、江戸時代の蘭方医。丹後国由良︵現・京都府宮津市︶出身。漢方医学を学んだあと、長崎で蘭学を学び、京都で医学校﹁順正書院﹂を創立し、多くの医師を育てた。翻訳書も含め、医学書も多数著した。名は碩︵せき︶、号は鬼国、駆豎斎。凉庭は字。
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略歴
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1787年に丹後の由良に生まれる。家が貧しかったため、漢方医の叔父の元で育つ。幼いころから記憶力に優れた秀才で、漢学を修める。16歳で福知山藩の江戸藩邸に詰め、18歳のときに故郷で漢方医として開業する。
21歳のとき、蘭方医の宇田川玄随が著した﹁西説内科撰要﹂を読み、西洋医学を学ぶことを決心し、1810年に長崎に向かって旅立つ。道中、各地の医学者を訪ねては交流して学び、3年後の1813年に長崎へ到着。カピタンのヘンドリック・ドゥーフに気に入られ、出島の商館医との交流が許され、自らも医師として商館で働いた。
1818年に故郷に戻り、1819年に京都で開業、多くの弟子を育てた。名医の誉れ高く、経済的にも成功し、1839年に医学学校と文化サロンを兼ねた﹁順正書院﹂を南禅寺の隣に建てた。経済にも明るく、諸藩の財政指導や融資を行なう一方、経済書も著した。
1854年、68歳で死去。順正書院は、養子の凉民・凉閣・凉介が跡を継いだが、明治時代に閉めた[1][2]。
大正4年︵1915年︶、正五位を追贈された[3]。
順正書院の跡地は現在、湯豆腐店の﹁順正﹂が店舗として使用している。
家族
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●父・新宮道庵︵義憲︶[2] - 丹後由良村の漢方医[4]
●伯父・有馬凉築 - 福知山藩医[2]。子の丹山も同藩医。
●妻・有馬春枝 - 凉庭の間に何人か子を儲けたが、娘・松代以外早世[5]
●妾・満寿[5]
●養子・新宮凉民︵1820-1875︶ - 娘・松代の婿[6]。備中︵岡山県︶黒崎の百姓町人・柚木直助の子・新太郎として生まれたが、医学に進み、舜民と名乗り、凉庭の養子となり義慎︵通称・凉民︶と改名[7][5]。新宮本家を継ぎ、凉庭の没後も順正書院で教え、維新後は京都医学会、京都療病院の設立に尽力[8]。子に凉亭、娘・増枝の婿に新宮凉園[5]。
●養子・新宮凉閣︵1828-1885︶ - 丹後︵京都府︶田辺藩士・古河主馬の子・義健として生まれ、13歳で凉庭の養子となる[5]。在京のまま伊勢津藩の藩医となり、維新後は京都療病院の設立に尽力[9]。
●養子・新宮凉介︵1818-1875︶ - 紀伊︵和歌山県︶の医師・松山庄太郎の子。旧名・松山文卿[7]。松山棟庵の兄。凉庭の養子となり貞亮︵通称・凉介︶に改名[5]。子の新宮凉園は凉庭の孫娘・増枝︵松代・凉民の娘︶の夫となり、娘・小百合は木場貞長に嫁いだ。凉園の娘婿に新宮︵金谷︶凉国。
著作
編集- 『西遊日記』 1836年 - 長崎留学記
- 『但泉紀行』 1846年 - 城崎温泉逗留記
- 『破レ家ノツヅクリ話』 1847年 - 経済論
伝記
編集- 新宮貞亮『順正書院記』1869年
- 新宮凉閣『鬼国先生言行録』1885年
- 山本四郎『新宮凉庭傳』(ミネルヴァ書房)1968年
脚注
編集外部リンク
編集- 『鬼国先生言行録』デジタル・アーカイブ 愛媛大学図書館鈴鹿文庫