新庄直頼
日本の戦国時代〜江戸時代前期の武将・大名。浅井家・織田家・豊臣家・徳川家の家臣。近江朝妻城主新庄直昌長男で、常陸麻生藩初代藩主。従五位下駿河守・宮内卿法印
新庄 直頼︵しんじょう なおより︶は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。常陸麻生藩の初代藩主。通称は新三郎。官位は従五位下駿河守、後に剃髪して駿河入道晟珊とも称し、後に法印に叙されている。直忠は弟。
新庄直頼 | |
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 天文7年(1538年) |
死没 | 慶長17年12月19日(1613年2月8日) |
改名 | 直頼→晟珊 |
別名 | 通称:新三郎、新庄駿河入道晟珊(略:新駿入)、宮内卿、法名:晟珊 |
戒名 | 総寧寺殿月海晟珊大居士 |
墓所 | 吉祥寺(東京都文京区駒込) |
官位 | 従五位下駿河守、宮内卿法印 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 浅井長政 → 織田信長 → 豊臣秀吉、秀頼 → 改易 → 徳川家康、秀忠 |
藩 | 常陸麻生藩初代藩主 |
氏族 | 新庄氏(秀郷流) |
父母 | 父:新庄直昌、母:久我大納言某の娘 |
兄弟 | 直頼、直忠、直壽[1]、ほか女子2名 |
妻 |
正室:佐久間盛重の娘[2] 室:前田利太の娘[3] |
子 |
直定、直綱、堀秀信[4]、直房 女(柴田帯刀[5]室) 養子:虎姫[6](中川秀成室) |
生涯
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天文7年︵1538年︶、近江国坂田郡朝妻城主新庄直昌の長男として生まれた。﹃重修譜﹄には母は久我大納言某の娘とある[9]。
天文18年︵1549年︶、父が27歳のときに江口の戦いで戦死し[9]、11歳で後を継いだ。﹃ 浅井三代記﹄によると、浅井氏と六角氏の間で揺れ動いていたが、最終的には戦国大名・浅井長政に従った[3]。
元亀元年︵1570年︶の姉川の戦いでは浅井側の第四陣を構成して戦っているが、その後、同2年︵1571年︶2月に浅井方の南方の拠点佐和山城の磯野員昌が降伏して開城し、織田方の丹羽長秀に朝妻城が攻められたことから、直頼も開城して軍門に降った[3]。
織田家では江北を任された羽柴秀吉の与力とされたが、坂田郡の支配を強めた秀吉によって次第に家臣化された。
天正11年︵1583年︶、賤ヶ岳の戦いに従軍し、近江坂本城を守備した。この頃、山崎城3万石に封じられていたというが、時期ははっきりしない[3]。天正19年︵1591年︶に近江大津城1万2,000石に移封されるが、嫡男・直定の所領と併せて2万4,000石ともいう[7]。秀吉の馬廻を務め[3]、同年11月、三河吉良狩猟のときに直定と共に秀吉に随従した[7]。また、伏見城普請を分担[7]。
文禄元年︵1592年︶、文禄の役には、直定︵新三郞︶が兵300を率いて朝鮮へ渡海した。
文禄3年︵1594年︶5月23日、肥前名護屋城にて明使沈惟敬が秀吉に謁見した際、直頼は長谷川守知、尼子三郎左衛門[10]、三上与三郎と共に御酌通之衆として次室の末席に控えていた[11]。同年10月、大和宇陀城主に移封され[3]、同4年︵1595年︶、摂津高槻城に移封され、3万石に加増されたが、この頃、秀吉の御伽衆にも列する[7][3]。
慶長3年︵1598年︶、秀吉の死に際して遺物金十枚を受領[7]。
慶長4年︵1599年︶、徳川家康が上洛した際に、加藤清正、浅野幸長と共に家康の伏見屋敷を警護した[9]。
慶長5年︵1600年︶、関ヶ原の戦いでは西軍に与し、東軍の筒井定次の留守部隊を押しのけて伊賀上野城を占拠し、そのまま籠城した[7][9]。﹃寛政重修諸家譜﹄には、当初は東軍に与しようとしたものの、周囲の大名全てが西軍に与していたため、やむなく西軍に属したと書かれている[9]。急を知らされた筒井定次が帰国し対峙したため、定次の息を人質とする和睦を結んで退去した。︵﹃伊乱記﹄[要文献特定詳細情報]︶
「上野城の戦い」も参照
系譜
編集脚注
編集参考文献
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●堀田正敦﹁国立国会図書館デジタルコレクション 秀郷流新庄﹂﹃寛政重脩諸家譜. 第5輯﹄國民圖書、1923年、286-287頁。
●谷口克広; 高木昭作︵監修︶﹃織田信長家臣人名辞典﹄吉川弘文館、1995年、210頁。ISBN 4642027432。
●高柳光寿; 松平年一﹃戦国人名辞典﹄吉川弘文館、1981年、125頁。