堀秀信
堀 秀信(ほり ひでのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、旗本。官位は従五位下・因幡守。
堀 秀信 | |
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 天正15年(1587年) |
死没 | 寛永4年6月18日(1627年7月30日) |
戒名 | 元郭 |
墓所 | 天徳寺(東京都港区西久保) |
官位 | 従五位下因幡守 |
幕府 | 江戸幕府旗本 |
主君 | 豊臣秀吉→秀頼→徳川秀忠→家光 |
氏族 | 新庄氏(秀郷流)→堀氏 |
父母 |
父:新庄直頼、母:佐久間盛重の娘 養父:堀秀村 |
兄弟 | 直定、直綱、秀信、直房、女(柴田帯刀室) |
子 | 秀嵩 |
略歴
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天正15年︵1587年︶、新庄直頼の三男として誕生。のちに堀秀村の養子となり、豊臣秀吉より偏諱を受けて秀信と称した[1][2]。
文禄3年︵1594年︶、徳川家康・秀忠父子が直頼の屋敷に訪問した際、家康より左文字の脇差を、秀忠からは一文字の太刀を与えられた[1][2]。
慶長4年︵1599年︶に家督を継ぎ、従五位下・因幡守に叙任される[3][2]。
慶長5年︵1600年︶の関ヶ原の戦いでは西軍に属したため所領を没収されるが[3]、慶長10年︵1605年︶11月、秀忠に拝謁し、翌慶長11年︵1606年︶、下総国匝嵯・香取2郡のうち1,000石を与えられて御書院番頭となる[1][2]。
大阪の陣では水野忠精の組に属した[1][2]。
寛永元年︵1624年︶1月19日、目付に任ぜられて500石を加増された[1][2]。
寛永4年︵1627年︶6月18日、死去。享年41[1][2]。
脚注
編集参考文献
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●阿部猛; 西村圭子 編﹃戦国人名事典﹄︵コンパクト︶新人物往来社、1990年、701頁。ISBN 4404017529。
●堀田正敦﹁国立国会図書館デジタルコレクション 堀﹂﹃寛政重脩諸家譜. 第4輯﹄國民圖書、1923年、1210-1211頁。
●高柳光寿; 松平年一﹃戦国人名辞典﹄︵増訂版︶吉川弘文館、1981年、218頁。