1917年︵大正6年︶[1]16歳で富士山に初登頂し、その後、登山家として全国の山々を歩き、マタギの人々とも交わり、彼らの食文化について執筆している。富士山、北アルプスなどにしたしみ、日本の女性登山家の草分けとなる。1923年︵大正12年︶、黒田鎮夫︵黒田正夫の弟︶と結婚︵のち離婚︶。1926年、日本自然保護協会の設立に参加した。
1934年︵昭和9年︶にNHK入社。同年から1943年まで教養部のディレクターとして家庭番組の企画、制作を担当。割烹着の発明者の娘[3]で、家庭料理や台所での工夫について著作多数。
1986年12月19日死去。85歳。著作に﹃山の明け暮れ﹄など。没後、米子宅に保存されていた村井弦斎資料3,530点は、神奈川近代文学館に寄贈された。
●﹃雪: 女性とスキー﹄南光社 1933年︵黒田米子名義︶
●﹃雪山のあけくれ﹄昭和書房 1948年
●﹃旅心旅情﹄明玄書房 1955年
●﹃山恋の記﹄河出書房 1956年
●﹃薬になる食べものその薬効と食事法﹄創元社 1961年
●﹃山岳の驚異﹄偕成社 1963年
●﹃山に入る日﹄日本山岳名著全集 第8巻 あかね書房 1962年 - 深田久弥、石川欽一らの文章とともに、村井米子の﹃山の明け暮れ﹄が収められている。
●﹃台所に役立つ山菜100種﹄新人物往来社 1975年
●﹃山愛の記﹄読売新聞社 1976年
●﹃台所重宝記﹄新人物往来社 1977年︵父、村井弦斎と共著︶
●﹃マタギ食伝﹄春秋社 1984年
(一)^ abcd“村井 米子”. コトバンク / 20世紀日本人名事典. 2021年7月12日閲覧。
(二)^ ﹁食道楽﹂の家系 村井弦斎、多嘉子、米子の著作 - 神奈川県平塚市北図書館︵2020年8月24日閲覧︶
(三)^ 割烹着の発案者としては、女子栄養大学の香川綾、羽仁もと子などを挙げる人もあるが、一番古いものは村井弦斎が、明治39年1月号の月刊﹃食道楽﹄創刊号で、妻多嘉子の手助けで考えたと断って﹁音羽嬢式台所上衣﹂として発表されたもの。﹁此服は加藤病院の手術服の仕立方を同夫人より聞き、村井夫人が応用せられたる物也﹂とある。西洋のメイドエプロンや手術着から発想したものだという。音羽嬢は、﹃食道楽﹄のヒロイン、お登和さんのこと。この上衣は全身を包むようなタイプである。当時、明治14年に赤堀料理教場が開校していて、生徒が着物を汚さないように割烹着を着せて実習をしていたというので、時系列では赤堀峰吉の方が早かったということになるのではないだろうか。それぞれが考案した割烹着のデザインなども比較検討して見る余地があるかもしれない。米子は、父の後を受けて台所の工夫について多数の執筆があるので、このように言われてきたものであろう。
外部リンク
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●デジタルアーカイブス栄養と料理 - 女子栄養大学のデジタルアーカイブスには村井米子の以下の著作が収録されている。なおすべて本名の﹁黒田米子﹂名義になっている。
(一)手軽な飯盒とフライパン料理︵ 昭和12年(1937年) 第3巻第7号 p46︶
(二)随想|折にふれて︵ 昭和14年(1939年) 第5巻第11号 p74︶
(三)支那食風俗所見︵ 昭和15年(1940年) 第6巻第11号 p63︶
(四)随筆|お餅搗き︵ 昭和19年(1944年) 第10巻第1号 p36︶
(五)スキー・雪の山と食物︵ 昭和19年(1944年) 第10巻第2号 p34︶
(六)雪の山の炊事︵ 昭和19年(1944年) 第10巻第3号 p37︶
(七)随筆|野草の食味︵ 昭和19年(1944年) 第10巻第4号 p41︶