松平勝義

 -1669

松平 勝義(まつだいら かつよし)は、江戸時代前期の大身旗本官位従五位下因幡守豊前守

 

凡例

松平勝義
時代 江戸時代前期
生誕 慶長7年(1602年
死没 寛文10年11月17日1670年12月29日
別名 源三郎[1]
戒名 道確[2]
墓所 京都府宇治市の萬福寺[2]
官位 従五位下因幡守豊前守[1]
幕府 江戸幕府 大番
主君 徳川家光家綱
氏族 久松松平家康俊
父母 父:松平勝政
兄弟 勝義久野宗成室、宮城豊嗣正室
正室:安藤重能[2]
勝則勝忠土屋知義勝光勝直
勝郷勝秀木村清真勝以
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1635年、8000石の知行地を下総国に移され、香取郡多古を居所とする交代寄合となった。以後松平家は廃藩置県まで10代236年にわたって多古を治め、3代目の時に大名に列する(多古藩)。

生涯

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71602[3]

91632126[1]121635駿1198000[1]8000[1][1][1]141637[1]

21653927[1]5166512[1][1][4][3]

1016701117[2]69[2][2]

系譜

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[2] ( ) 






(1)

(2)1623-1680


(4) - 

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(13) - 

(14) - 

(15)1661-1728 - 


(3) - 

脚注

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注釈

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  1. ^ 『多古町史』では近江国内にあった知行地とする[3]。『寛政重修諸家譜』では、勝政が駿府城番になった際に駿河国内ですべて8000石を知行したと記している[3]
  2. ^ 65歳ともいい[3]、この場合は慶長11年(1606年)生まれとなる。

出典

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(一)^ abcdefghij p.2791p.285

(二)^ abcdef p.2801p.286

(三)^ abcde . ADEAC. 2022225

(四)^  pp.279-2801pp.285-286

参考文献

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