楊業
生涯
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楊業の父の楊信は後漢にあって麟州刺史に任じられた。楊業は青年時代に後漢の河東節度使の劉崇の部下となった。後周の広順元年︵951年︶、劉崇は太原にて北漢を建国した時に、楊業は建雄軍︵現在の山西省忻州市代県︶節度使となった。後に、劉鈞は、彼を養子とし、﹁劉継業﹂の名を与えた︵これにより、北漢末の君主の劉継元と同輩になった︶。さらに、楊業に長く北方の守りの代州を固めさせ、遼軍に備えさせた。北漢の君主の劉継元が宋の太宗に降伏した後も、戦闘を継続したが、劉継元自らの降伏勧告により宋に降った。左領軍大将軍・鄭州防禦使に任ぜられ、潘美と共に北方の遼の南下に備えた。
宋の太平興国5年︵980年︶3月、遼の景宗は10万の兵を発して雁門関を攻めた。楊業は奇兵を出して雁門関を迂回して北より遼軍に奇襲をかけ、潘美と前後から攻撃し、大いに遼軍を破った。このとき、遼国の駙馬都尉・侍中蕭啜里を殺し、馬歩軍都指揮使の李重海を生け捕りにした。この功績により、楊業は雲州観察使に昇進した。これより楊業は、遼軍の間で畏れられるようになった。
雍熙3年︵986年︶、太宗は北伐して遼を攻めることを決定した。潘美と楊業を西路軍の主将とした。途中、曹彬が岐溝関の戦いで敗れ、田重進・潘美が蔚州で破れたため、遼軍の優勢な兵力と正面から向き合わざるを得なくなった。耶律斜軫の大軍が追撃してくる状況となり、楊業はその鋭鋒をさけることを主張したが、王侁の讒言を受け、二心あることを疑われた。楊業は北漢の武将であったのが降伏しているので、他人に疑われるのを避けざるを得ず、明らかに不利な状況の下、出兵することを主張せざるを得なかった。結果、狼牙村︵現在の山西省朔州市朔城区︶で大敗し、全軍壊滅した。子の楊延玉はこの戦役で戦死し、楊業の悲憤限りなく、絶食しその忠義の心を明らかにしようと決意し、捕虜となり連行される途中で死亡した。
楊業の死後、太宗は潘美の位を三階級落とし、王侁の名を名簿から削り、金州に流し、劉文裕の名も削除して登州に流した。
楊業には7人の子供があり、楊延玉以外は楊延昭︵本名は楊延朗︶・楊延浦・楊延訓・楊延瓌・楊延貴・楊延彬である。ただ、六男の楊延昭だけに子孫がおり、北宋中期の名将の楊文広は、楊延昭の子である。
楊業の妻は、姓を折という。清の光緒年間に編集された﹃岢嵐州志﹄巻九﹁人物・節婦﹂の条の記載には次のようにある‥﹁楊業、折徳扆の女を娶る﹂、﹁折の性は敏にして、慧成り。嘗て業の戦功を立てるのを助け、楊無敵と号する﹂と。﹃宋史﹄巻二五二﹁折徳扆伝﹂の記載には、﹁折徳扆、雲中に居す﹂と。折徳扆の父親の﹁折従阮は、晋漢︵後晋・後漢︶以来、府州に独り居る﹂。折家は後周に帰服した後、﹁父子倶に節鎮を領す、時の人、これを栄となす﹂。折徳扆の弟の折徳願、子の折御勲・折御卿、玄孫の折克行はみな武官となった。折と楊の両家は同じく山西の人であり、折従阮と楊信はみな地方の豪族で、府州と麟州は隣り合っている。折徳扆は、楊業に比べて24歳年上であり、両家がともに代々武門の家でありことにより、折徳扆は自分の娘を楊業に娶せたのであり、折徳扆の娘は折氏であるが、﹁楊家将﹂の話の佘太君にあたる。﹁佘﹂は﹁折﹂の誤りであろう。
楊家将
編集「楊家将演義」も参照
楊業の死後、彼の子孫は、その精忠報国の意志を継いで、遼に対して交戦を続けた。中でも楊延昭・楊文広は最も有名である。北宋の著名な文学者の欧陽脩は、楊業・楊延昭を、﹁父子は皆名将、その知勇は無敵と号す、今に至るまで天下の士から在野の子供に到るまで、皆これを良く言う﹂と称えた。宋元の民間芸人は﹁楊家将﹂の故事をもとに、戯曲を編成したり、舞台に掛けたりした。明代に到ると、民間で彼らの故事から﹃楊家将演義﹄﹃楊家将伝﹄を作った。また、小説や評伝の形で社会に広まった。しかし、歴史的な考証に基づいているとは言えず、穆桂英などの人物は実在ではなく、民間で作られたものである。
山西省代県では、ある古い鐘楼に2つの巨大な﹁威震三関﹂と﹁聲聞四達﹂の額がある。言い伝えでは、﹁楊家将﹂の不朽の功績を称えるものだと言われており、現在にまで残る珍しい遺物である。
楊業の事蹟は、﹃楊家将演義﹄で中国では有名であるが、日本では長く翻訳されず、あまり知られてこなかった。北方謙三が小説﹃楊家将﹄﹃血涙﹄を著して、日本でも少しは知られるようになったが、これらの小説は忠実な翻訳というより北方の翻案である。初の日本語訳として2015年6月に岡崎由美・松浦智子共訳で﹃完訳 楊家将演義﹄︵勉誠出版、上・下︶が刊行された。
登場作品
編集- ドラマ
- 映画
- 『楊家将〜烈士七兄弟の伝説〜』(2013年、演:アダム・チェン)
参考文献
編集- 『宋史』列伝第三十一 楊業・荊罕儒・曹光実・張暉・司超 伝