歓因知利
概要
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﹃日本書紀﹄雄略七年是歳条によると、歓因知利が﹁私よりも巧みな技をもった職人︵才伎︶が、韓国︵からのくに︶にいます﹂というので、雄略天皇は歓因知利の建言を受けいれて、百済から職人を献上させた。結果、陶部高貴、鞍部堅貴、画部因斯羅我、錦部定安那錦らの四衆の工匠・画工群、及び訳語の卯安那らが百済より来日したという[1]。
坂元義種は、﹁﹃西漢﹄は、﹃河内漢﹄などとも記し、﹃東漢﹄︵倭漢︶に対する語で、河内地方居住の中国系渡来人。この一族の代表の姓は、はじめは直、のち連、やがては忌寸を与えられた。﹃才伎﹄︵古訓‥テヒト︶は﹃手末才伎﹄︵古訓‥タナスエノテヒト︶とも称された技術者を指す。歓因知利︵古訓‥クワンインチリ︶は人名であるが、他に所伝がなく不明﹂とする[2]。