民本主義
人民のための政治を強調する主義
「民本」の由来
編集「民本」という語は戦国時代中国の思想家・政治家孟子とその著作に登場する[2]が、吉野作造によれば「民本」という語は大正期に上杉慎吉あるいは茅原華山が使用していたものを借用したものであり[3]、上杉によれば井上哲次郎が1913年2月『東亜之光』第八巻第二号で使用したものを借用したとしており[4]、一方で茅原によれば「民本」なる語は『万朝報』社主である黒岩涙香の造語であって仁徳天皇の故事から採用した思想だとしている[5]。
経緯
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吉野作造が1914年︵大正3年︶﹁民衆的示威運動を論ず﹂や1916年︵大正5年︶﹁憲けん政せいの本ほん義ぎを説といて其その有ゆう終しゅうの美びを済なすの途みちを論ろんず﹂︵﹃中央公論﹄掲載︶などの論文で唱えた。これは、大正デモクラシーを活発にする一因となった。
﹁憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず﹂によれば、democracyの訳語には、
●国家の主権は法理上人民にあり︵民主主義︶
●国家の主権の活動の基本的目標は政治上人民にあるべし︵民本主義︶
という2つが考えられる。民本主義では主権の所在は問わない。主権者は一般人民の利福・意向を重んずべきことが主張される。一見矛盾するようだが、完全に両立可能なものであるとして、主権は君主にあるか人民にあるかをあえて問わない[6]。
概説
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思想の詳細
編集吉野の民本主義の趣旨としては、
と述べている[7]。
吉野が「民主主義」という言葉を忌避していたのは、当時の日本に憲法が制定され名義上立憲君主制であったもののまだ絶対君主的な風潮が強く、それとできるだけ衝突を避けるためにあえて穏健的な主張をしたとする説もある(ただし当時の大日本帝国憲法に関しては主権者が明記されていない)。
民主主義との比較
編集民主主義 | 民本主義 | |
---|---|---|
主権 | 国民 | 問わない |
人権 | 永久の権利 |
参考文献
編集脚注
編集
(一)^ 小学館・日本大百科全書ニッポニカ﹁民本主義﹂[1]︵松尾尊兌︶
(二)^ ﹁孟子の﹁民本説﹂について﹂﹃漢文學會々報﹄第23巻、東京教育大学漢文学会、15-22 (14)、doi:10.15068/00148599、hdl:2241/00148599、CRID 1390290699627563520。
(三)^ 松本三之介﹁﹁民本主義﹂の歴史的形成﹂﹃年報政治学﹄第8巻、日本政治学会、1957年、113-114頁、doi:10.7218/nenpouseijigaku1953.8.0_109、ISSN 0549-4192、CRID 1390001205381621760。
(四)^ 松本三之介、1957年
(五)^ 太田雅夫﹁大正期におけるデモクラシー訳語考﹂﹃キリスト教社会問題研究﹄第13巻、同志社大学人文科学研究所キリスト教社会問題研究会、1968年3月、34-68頁、doi:10.14988/pa.2017.0000008266、ISSN 0450-3139、CRID 1390009224911657600。
(六)^ お探しのページが見つかりませんでした5分でわかる﹁大正デモクラシー﹂背景や民本主義、問題点などを解説!
(七)^ 前者の政権運用の目的は1918年︵大正7年︶に﹃中央公論﹄で掲載された﹁民本主義の意義を説いて再び憲政有終の美を済すの途を論ず﹂では除かれた。